いきいきしにしに

・知り合いが亡くなった。死因はわからない。
《大豆田とわ子と三人の元夫》の中のオダギリジョーのセリフ。


「人間は現在だけを生きてるんじゃない。
5歳、10歳、30、40。その時その時を懸命に生きてて、過ぎ去ってしまったものじゃなくて、
あなたが笑ってる彼女を見たことがあるなら、今も彼女は笑っているし
5歳のあなたと5歳の彼女は、今も手を繋いでいて
今からだっていつだって気持ちを伝えることができる。

人生って小説や映画じゃないもん、
幸せな結末も悲しい結末もやり残したこともない。
あるのはその人がどういう人だったかっていうことだけです。」


そうであってほしいと思う。
「秘密も愉しいけれど すぐ野晒しになるよ それを笑わないで」
透明人間/東京事変
とも思う。

生きてきた個人の痕跡が、生きている私達にとって納得のいくものだけではないだろうし、それを詮索して、今更、私達はその個人を「知り直す」ことにどれだけの意味があるのか?生きている私達にとって納得のために、野晒しになるべきなことなど
多分、そんなに多くないのではないか。
どうだろう。

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テレビ番組で、最近夫がなくなり、夫の在りし日の姿を携帯の待ち受けにしたいのだが、できない。という人に、スタッフが、待ち受け画面をその画像に変えてあげる。
「心 丈夫やわ」「こうして持ってたら、自分自身がこけないような気がする」
という。
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その人がいてくれたから、心が丈夫で生きていける。
そんなパートナーと「ともに生き、ともに老いる」というライフプランが、描きにくい。そうであったら、いいのに。とも思う。
知り合いは、一人で亡くなった。

若い友達(もしくは知り合い)が持つ、なんとなく、本当に深い、当たり前に横たわる「他者は、本質的に絶対に自分の思うようにはならない。絶望的な距離感」。
もちろん、そう。合ってる。
だけれど、寄り添い合うこと、受け入れていくこと。それは不可能なのだろうか?

性役割が分担できること、あるいはお金を稼いでこれること、親が毒親じゃないこと。
自分がもっている生存スペックがどんな状態でも、それは、その人が持っているステキなところのすべてではない。
逆もそう、どんなに見目麗しい、清潔感と、筋肉と、メイク術を持っていたとしても。
それは、その人が持っているステキなところの一部。
見つけにくくても、その人が持っているステキなところに気づく人はいる。
そうか、それが難しいんだ。ってやっとこの年になって気づく。
こうやって迷っている間に、誰にも気づかれずに死ぬ。

・お金がない
インプ稼ぐ 肌色の若き君の肖像の 6年前にも見た白さ

・雪の落下
雪は鑑賞物たりうると感じた最近。
完全にコントロールされた、舞台の雪のように、等速にゆっくりと落ちてくる雪の静かでうつくしいこと。

・リアルする
駅前の スタバの前の点々の 1つ残りし夕暮れのスクロール

・音楽の
メロディが感動を与える、人に勇気与える、そんな馬鹿な!と思う。

2023年の吹奏楽コンクール選曲について

2023年のコンクールも支部大会までが終わった。
結果の一覧を見ながら感想をメモ。

■天野×天野作戦は失敗?
課題曲に天野正道さんの作品《レトロ》が選ばれ、自由曲にも天野正道さんの曲を選ぶ団体がいくつかあったようだ。プログラミングとしては、ナイス!と思うが
全国大会で課題曲3✕天野正道自由曲の団体は見られなかった。
そして、天野正道を自由曲に選び、全国大会に出場する団体は、なんと1団体。
と同時に、天野正道編曲のイベール《祝典序曲》が2団体。
天野×天野、よっぽど考えないとかなりクドいのかも(というのとモチーフが共通のものが多いためか?)
来年、酒井×酒井も、やめたほうがいい⁉

■福島・高・樽屋・長生の時代
2023年の全国大会では、
島弘和:8団体
高昌帥:7団体(5団体が「陽が昇るとき」)
樽屋雅徳:7団体
長生淳:5団体 となっている。
オリジナルは、スパーク:5団体(4団体が「ドラゴンの年」)
アッペルモント:4団体(全部「ブリュッセル」)、フェラン:4団体。

邦人作曲家作品が、課題曲的な自由曲化し、ループし続けている流れは変わらず。
一方で、レスピーギラヴェルバルトークが息を潜める年になった。
スペインの樽屋雅徳(冗談です)、フェランが4団体。

■新曲に活路を見出すか?過去に遡り「今」は誰もやらない曲を選ぶか?
今年、全国初お目見えの曲もざっくり見ていこう。

・O.トーマス/「カムサンデー」は、2022年の百萬石ウィンドが選び話題となった。
ゴスペル調のサックスソロ、ノリノリの後半。どんなカットになっているのか楽しみ。
・周天(Zhou, Tian)/「シンフォニア」より。よく見つけてくれたぞ光が丘!周天は、petals of fireも名曲。
坂本龍一のエルマーメディテラーニ(El Mar Mediterrani)はバルセロナオリンピックのテーマ。亡くなった坂本さんへのリスペクトも感じる選曲。ホース、回すのかな。
・芳賀傑/「彩をえがく鳥」やっと、全国に芳賀さんの曲がやってきます。「水面に映る〜」で吹奏楽界からはいわゆる「推され」だった芳賀さん。なかなかコンクールの自由曲としては、評価されにくかったようですが、「彩をえがく鳥」はどんな演奏になるか?これもカットが気になる。
J.M.デイヴィッドは、「過ぎ去りし年の亡霊」から始まり、ひたひたと演奏回数が増えている作曲家。木管が連符、金管が高い音!というのが基本線です。

O.トーマスとJ.M.デイヴィッドは、BLMや、ジェンダーの問題、環境変化についてなど、社会的な題材を用いることも多く、時代を照らす作曲家としてこれからも注目されていきそうな気がします。日本で言えば、伊藤康英路線。ゴーフォーブローク、ピース、ピース。団体のもっている個性にもフィットするのだろう。

今年、私を驚かせたのは、学芸館のアルメ(21年ぶり)、開智アカデミックのヴァレンシア(23年ぶり)、大曲のネルソン「パッサカリア」(全国初)、日進中の「天国と地獄」(17年ぶり)だ。
選曲の意図はなんだろう?
・指揮者が得意だから。
・名曲をやっぱりやりたいから?
・どこともかぶらないから。
どの理由を持ってしても、非常に戦略的なチョイスだと思う。果たしてどう評価されるのか?っていうか評価されなくても、今この曲を全国で聞かせるということがそもそも意義深いと思う。
20年前からの呼び声…。今の時代は逆に、新鮮に聞こえたり、スコアの素晴らしさに気づける良い教材ではありそうな気がする。

■来年は?
西村朗先生の秘儀シリーズの見直し。
樽屋雅徳の過去作のリバイバルバージョンの流行。
島弘和のシンフォニエッタシリーズの安定的な流行。

方向性としては、

1.大きすぎる編成でしか効果が生まれにくい曲の排除↔小編成で効果的な曲の増加
2.難しすぎる曲の排除↔中高生が感情移入しやすい曲の増加。
3.仕上げられる曲(過去に仕上げた曲)の増加↔音楽的な個性をもった曲の排除
という対構造がより進むだろう。
楽譜屋の目論見にちゃんとマーケットが動かされている証拠である。

いつも思う。自分でちゃんと探そう。
最近、とんでもないことを考えているのだけど。
実は「曲」では勝ってないのじゃないか?と。
もちろん、「曲」の持つ難易度が、ある程度の技術点の底上げになるとは思う。
最後は「曲」が持つ音楽的なチカラ、という話も聞く。
が、基本的なことができている学校は大体、どんな曲でも勝ってないか?
ある一定以上の難易度や実績がある自由曲であれば、よほどのことが無い限り、
ちゃんと音が並んでいれば、勝てるんじゃないかなっていう暴論。
その「基本的なことができている学校」というのが、
実は「基本的なことができている中学校から、生徒を大量に買っている学校」ということだったり、
「基本的なことを、ある一定の地区内で、小学校ー中学校ー高校という流れで作ることができている学校」ということだったりするのではないか?
あるいは「基本的なことを一瞬で教えられるコーチを買う学校」なのか。
そういうビジネスなんだよね、俯瞰してみると。
だからこそ、そういうビジネスの中にいない私は(あるいは私たちは)
何をやるかちゃんと自分で、(あるいは自分たちで)
考えていこうよ。って思う。逆に勝つなら、
上記の3つのどれかを実践できる、お金・人材・地域を作っていかないとたどり着かんのだろうな。





chatGPTさんと過ごす週末

暇だが、節制気分である。現実的な問題として、だ。
さて、そんな日はchatGPTさんと過ごす。

さて、このAIは、今の所、日本語にあまり強くない。なにせ「日本で有名な吹奏楽作曲者は?」と聞くと「谷村新司」と答える。何度違うよと言っても「服部克久谷村新司大江千里」と答える。曲のタイトルもチグハグ。バーンスタイン交響曲のタイトルが巨人だったこともあったな。
とんだ勘違いボーイである。
chatGPTさんは、自分で考えているふしがある。例えば「what is SUISOUGAKU」と英語できいた場合、「水槽楽、それは水族館の音楽です」と答える。もはや美しい。

吹奏楽コンクールで人気の曲は?と聞くと

人気のある曲目としては、細野晴臣の「大空と大地の中で」、音楽畑の「ラストバタリオン」、三枝成彰の「聖戦士ダンバイン」などがあります。

と教えられた。全部、違う。
あと、石井眞木がすごく好きで、とにかく困ると石井眞木が出てくる。
真島俊夫が作曲した曲は?と聞いて「横浜赤レンガ倉庫」と答えられたこともある。

一方で、政治的なトピックスについては、非常にリベラルな回答が返ってくる。

このAIは大量のテキストデータから学んでいるらしい。
インターネット上にある情報を大量に摂取し、自分自身を訓練して改善していくしくみらしい。今まで私達がSEO対策と称して、キーワードだらけにしてきた真偽の程が定かではない場合もあるWEBページや、購買のため、人をある一定の方向に(消費行動的に)仕向けるためのテキストデータから、彼らは学んでいる。おそらくWEB上のテキスト量が増えるのは2000年以降。2000年以降の言説が根拠になっている。
人間側の記述にも時代ごとのなんらかの流れを含むわけで、その意見が歴史的な正当性あるものではない可能性がある。
うんこのついたティッシュで、もう一度自分のお尻を拭いているような感覚がある。

若い学習者が、AIに質問を投げかけ、それを疑わず、吹奏楽で有名な作曲家として谷村新司を吹聴するようになったらどうしよう笑
もちろん、AIはかすめている。吹奏楽でも演奏されるサライの作詞者は谷村新司だから。どこかの文脈がまだ未成熟なのだろう。

そして、インターネット上に有史以後のテキスト化できる情報がすべてあるわけではない。膨大な書物についてもそう。そしてそれを参照するかどうかもそう。
極端に言えばインターネット以前が失われてしまった閉じた世界の中での知識を、AIは増幅させ、インターネット上にまた自動で情報を生成していく。
はて。と思う。
歴史の屑拾い(藤原 辰史)にあるような、人間が生きて残した歴史の小さな断片は、どこに行ってしまうのだろう?商品化されない、市場に売り込まれない、人間の独自にもった時間や、バグは…。

とちょっとした厭世気分になるのだけれど、大丈夫だと思う。
インターネットに真理を求めたりしなければ。インターネットにある情報だけが、自分の生きる指針などと思わなければ。少しの話し相手として、AIがいるくらいに思っておけば大丈夫。それくらい、本当っぽいことしか今のAIは言えない。(なんの対抗意識?)

 

タダ乗りが悪いわけじゃない

日本中のプロオケや、吹奏楽団で常設の人数がとても減っているのではないかという話を聞く。3つの集団に分かれられるほどの人数を擁するオケはさておき。
今までもある一定数入っていたであろう、エキストラ(トラ)だが、
いつの間にか、どこのオケにも呼ばれているトラ、というの優秀な人が現れる。
ノーブルで、どこのオケや、ブラスに呼ばれても、邪魔にならないどころか、よい相乗効果をうむ人物もいそうである。

気になるのは、歴史の中で培われた集団としてのオケのカラーや、オケのサウンド、あるいは音楽性は、メンバーの半分がトラになってしまったとき、どうなるのか?
コンマス人間性の中に?
古くからいる団員のプライドの中に?
エストロの中に?
あるいは団体名でくくっているだけで、中身は同じ?(まさか…)

一般企業だってそう、パーパス経営と言われているが、パーパスを共有できない、フリーライドする従業員がいたら?その人とはどうパーパスを共有するの?
パーパスの共有や、社是などの共有がお互いにめんどくさいから、きっとフリーライドして、どこでも使える人間になるのが、逆にクリーンな道なのかもしれない。
洗脳されず、あくまで自分軸だけで生きる。
働くことに対して、そんなモチベーションないのかもしれない。お金くれればよいよね。

そんなふうに、みんなが無頼派になっていくとき、どんな人間が組織に残るのか?
そして、組織とは今後、有り続けられるのか?
会社は「マネジメントとお金を払う事務局が本体」みたいにもっともっとなっていくのかな。そのときに、その集団の価値って何に現れるのかな?

気になっているのは、集団だから《引き出されあう》という考え方はもう古いのか?
ということ。集団が練り上げる音楽、作り上げるものに、個人的に興味があるから、だけれども。(考えるメモとして)

静寂を強いられる時間としてのコンサートホール

クラシック音楽に必要な大切な要素、「静寂」。
J・ケージをひくまでもなく、クラシック音楽は静寂に支配されている。
曲間におこる大量な咳、子どもに口をそっと手でおおう母親たちの姿、
音が空間にとけいるような、ppppの中で鳴る携帯のバイブレータ
おつかれのおじさんからかすかに漏れる寝息。

音楽を愛するものたちは、まるで水や空気のように、静寂を根本原理にしている。静寂がもたらす緊張感、静寂に向かう音楽のドラマツルギー、静寂というキャンバスの中ににじむ音像、指揮が終わったあとの残響を味わうための静寂。

そして、この静寂を作り出すために、出演者も、裏方も全員が、静かにしている。
なるべく音を立てず、むだに騒がず、裏手ではみんなが「シー」と人差し指を立てている。
この静寂の強制力が、コンサートホールでのルールやマナーとして機能しているがために、クラシック音楽は、静寂をキャンバスにして、成立している。
が、その強制力が、圧倒的な排他性をもたらしているかもしれないことにも目をむけたい。
・音楽ホールに行きたいけれど、子どもがいるから行けない。
・子どもOKというコンサートでも、結果、静かな曲では静かにしなければいけない。
・少しお話しながら、曲を聞いていると、後ろから座席を蹴られる。
・ホール中に響く、キャンディの包み紙のカサカサに、すべての観客がナイーブになる。※ところで、ビニールのこすれる音ってなんであんなに響いてしまうのか?楽器として有効な気がするほどの、響き渡り方である。
・静かな空間だと、思わず笑ってしまう。
・お腹がなったらどうしよう。
・親子席があるけれど、数が少ないし、空間が密。
などなど。コンサートホールについての「音」に対する制約は、ホールへの少しの敷居の高さや、めんどくさそうさ、気遣いの強要を感じさせるには十分すぎるほどある。

『そうお思いになるなら、じゃあ、クラシック音楽を聞かなければいい』と言い切ってしまえるほど、業界には余裕がない。
ルールを遵守し、ホールを守ってきてくれた世代が、退場していってしまうという切迫した状況が、まさにそのルールによって、課題となってしまう。

キーンと耳鳴りのするような静寂を守ることを、命をかけて守ってきた制作側や、観客が作ってきたルール。

どうすればいいのかの模索がいろいろなところで始まっている。
・子供連れの家族がOKのコンサート。
・小さい子供向けの音楽ワークショップ。 など。

そして静寂だけでなく、様々な垣根が音楽ホールには存在する。
車椅子では通りにくい通路。目が見えない人が移動しにくい場内。
足が悪い人が、動きにくい客席と客席の間。
もちろん数多くのホールが垣根に対しての工夫をしていることは事実だが、
どこかで、すべての人がアクセス可能な状態になっていないことと、
クラシック音楽が構造としてそもそも持っている権威性と結びついたとき、大いに排除を生んでしまう構造がある。

そもそも、
「しつけ」や「常識」や「教養」がなければ、クラシック音楽にはアクセスできないだろうか?音楽体験の本質的な楽しさは、本当にそれだけだろうか?
(考えるためのメモとして)


・多様な入り口をつくるために、聴取者をわけて企画すること
また、そのことによる分断。
クラシック音楽の現場に誘おうとするが、クラシック音楽が彼らの生活空間にいざなわれることはない。ある種のファンタジー

 

部活を考えることは、地域を考えること

地域に部活動をまかせてみようという方針が国から出ており、地域はザワザワしている。
教育現場が抱えている問題と、地域が抱えている問題、家族が抱えている問題の
それぞれが混在した場所に「部活動」はあることがより一層色濃く見えてきているからだ。

【そもそも部活とは?】
部活動において、
教員側の不勉強な正論と、その生徒が今感じている技術的・精神的なポジションの間にあるギャップをどう整理するか?また、どのコミュニケーションが一番のニーズか?は整理しないとまずい。

「学校教育の一環として」行われるものであり、「生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動については、スポーツや文化及び科学等に親しませ、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等、学校教育が目指す資質・能力の育成に資するもの」と明記されている。異年齢との交流の中で、生徒同士や生徒と教師等との好ましい人間関係の構築を図ったり、生徒自身が活動を通して自己肯定感を高めたりするなど、生徒の多様な学びの場として、また、部活動の様子の観察を通じた生徒の状況理解等、その教育的意義は高い。

文化部活動の在り方に関する総合的なガイドライン(文化庁 H30)

 とある通り、部活動とは多様な学びの場である。と定義づけられている。
コンクールに出て、勝ってこいとは(まあ書く必要ないし)まったく書いていない。


(2)望ましい部活動の在り方
〇 生徒にとって望ましい部活動の実施環境を構築するという観点に立ち、文化部活動が以下の点を重視して、地域、学校、分野、活動目的等に応じた多様な形で最適に実施されることを目指す。

・ 知・徳・体のバランスのとれた「生きる力」を育む、「日本型学校教育」の意義を踏まえ、生涯にわたって学び、芸術文化等の活動に親しみ、多様な表現や鑑賞の活動を通して、豊かな心や創造性の涵養を目指した教育の充実に努めるとともに、バランスの取れた心身の成長と学校生活を送ることができるようにすること。

・ 生徒の自主的、自発的な参加により行われ、学校教育の一環として教育課程との関連を図り、合理的でかつ効率的・効果的に取り組むこととし、各学校に おいては、生徒の自主性・自発性を尊重し、部活動への参加を義務づけたり、活動を強制したりすることがないよう、留意すること。

・ 学校全体として文化部活動を含む部活動の指導・運営に係る体制を構築すること。

・ 文化部活動の多様性に留意し、可能な限り、生徒の多様なニーズに応じた活動が行われるよう、実施形態などの工夫を図ること。


【ブラック部活としての吹奏楽をなくすという暴論】

ブラック部活と働き方改革はすごく近いところにある概念だと思う。
ブラック部活は、


顧問となる教師にとっても、生徒にとっても、過重な練習・試合などが負担となっていることを指した言葉

とされているが、部活は家庭にとっても負担となっている場合がある。
そもそも家庭がこういったブラック部活的な社会(労働環境)に組み込まれていて、学校か、社会かどちらとも言えないが、かなり「ブラック」な状況の中でも働くしかない環境設定がされている様相にある家庭があると言える。
家庭ー学校は、社会への労働力再生産のための場、とするならば写し鏡になってしまうことはたやすく想像できる。

そして、別の目線としては、学校の中での人間関係が複雑化しやすいのが「部活動」である可能性も否定できない。高校の不登校に関する理由に「クラブ活動・部活動等への不適応」をあげる生徒も少なくないからだ。顧問からのパワハラによる自殺、部内のいじめ、執拗ないじり、はぶり、SNSの問題行動(DMによる生徒同士の問題行動、SOGIハラなどなど)…。集団の中の人間におこりそうなことはだいたい、部活にも当然起こる。

今後、全部の人がハッピーに部活を行うためにされたらよいであろうことはたくさんある。以下箇条書きにおける試論だ。

【メソッド化】
・(受賞歴がほしいのであれば)短時間で全員が上手になる練習メソッドの確率
⇒効率的・効果的な活動のための指導手引(マニュアル)を各関係団体が出せと国のガイドラインは言っている。これにいち早く個別に応答した形になるのが、柏高の音楽監督である。おそらく他の吹奏楽関連団体も似たようなマニュアルを出してくるのではないか?と想像できる。


 2019年2月に開催された千葉県で行われた『「部活動のためのガイドライン」に基づいた短時間で効率の上がる吹奏楽指導法研修会』で、石田先生が配布された冊子のデータを無料公開いたします。

【部活をゆるめる】
・部活をそもそも「必ずやるべきこと」としない
・部活延長の禁止、週3回までとする等、時間的な制限を加える。
・顧問業務の縮小⇒部活動分野の縮小による職員

【外部委託部分を増やす】
・部活の外部委託化(コーチの外部委託についても国からお達しが出ている。が、指導員を誰に頼むのか?によって部活の方向性は大きく変わる)
⇒音大卒の就職先のない若者やそれに準ずる若手が、地元のいくつかの高校をかけ持ちしながら指導員として生計を立てていけるようなロールモデルがあれば、活性化するのかも。だいたい1つの県に50人そういうプロがいれば成立するはず(1県の高校数を100として1人が2つの高校をかけもちし、それぞれ10日ずつレッスンする、1回のレッスン費等を1-1.5万円とすれば、生活がまったくできないわけではないが、レッスン費がボランティア活動である場合は成立しない。)

吹奏楽は、「部活」である⇔大人数で行う「芸術活動」である のどちらをとるか?を国ー地方自治体ー教育委員会と、横断的に考えなければならないものでもある。
吹奏楽は、国の芸術振興に役に立つか?という議論の中で、音大出身者は、演奏活動以外にどう社会に開かれて生きていくべきか?ということも議論すべき。これは「音楽」は産業としてどんなありようがこれから可能か?という未来的な議論が含まれる。

強豪校→音大→演奏家以外のライフコースほぼない→フリーター→実家帰って一般企業の事務→本当に君は何をしたくて音楽を学んだの?ってことになりかねない。
※もちろん、こういうライフコースを悩んで選んだ人を否定するつもりはない。
音楽を学ぶということには、きっとほかの大学ではできない「体験」から学ぶことがあるはずだと思うので、それが活かされる仕事とマッチしてほしいと思っている。
だが、本来生徒たちが希望していたのは、ビジネスとして音楽に関わり、音楽で飯を食うことを想像していたはずなのだ。その受け皿が日本には少なく、海外のように、音楽家でありながら、弁護士だったり、といった2足のわらじをはきながら生計を立てていくようなライフモデルも社会上容認されていいはずだ。


【インフラだって整備必要】
・親が部活に迎えに行かなくても良いような交通網の整理(田舎の人なら理解してくれる気がする)
⇒入学志望の段階で「遠くてもその学校で学びたい」と思っているということは、移動については家族で担保できるのだよね?という暗黙の契約を含むように思う。
じゃあ、近いけど、自分の個性に合わない学校に行けと?という議論にもなりかねず、難しい部分である。(そもそも偏差値でその子どもたちの能力や資質を決めようとしているのが間違っているともいえるが)

【コンクール廃止と音楽の専門課程を持った高校の創出】
・コンクールをなくす(ブラック部活の多くは強豪校になりたい高校が陥りやすいのではないか?と仮説するとコンクールそのものを無くし、合同演奏会の定期化に行政側が予算をつける、くらいのほうがいいのかもしれない)
・その上で、選択授業の中で管楽器演奏ができる高校を増やす。(音楽選択をもつ総合高校や、主体的な学びの授業の中に組み入れ、音楽の道に進みたい生徒はそちらでカバーすることとし、部活はあくまで、合奏を楽しむという位置づけする。)

【校外での放課後活動としての吹奏楽
部活がない日の子どもたちには、外で遊んでから帰ってくるか、図書館に行って勉強するか、家に帰ってゲームをしているか、他の習い事を増やすかなどの新しい選択肢が生まれるが、これは家庭にとって負担を増やすことにはならないか?
お家にいられる人が誰かいれば、お腹ヘッター!と帰ってきても準備してあげられるけど、大人の目に触れていない時間が増えることは、少し家庭にとっては不安かもしれないし、放課後の時間の使い方で、学習格差がつきやすいことが言われている。
黙って部活に行っていてくれたほうが…と思う人もいるかも。

高校生向けの学童のようなところで、吹奏楽をやるっていうのも手かもしれない…。
地域ごとで1つの合同バンドのようなイメージ。一般バンドのメンバーが指導に入るような形で進めるとどうか?

 

「ブラック部活」は、教員側からのという問題提起だったことを考えると、
大勢の先生にとっては、自分の興味がない分野の部活動の顧問にさせられる不安や面倒、例えば、大会シーズンになれば、毎週末練習(少しの時間外手当)といった慢性的な働きすぎは上記のような方策で、解消できそうな気がする。学校はそもそも、新しい知識や知恵を生活の中から学ぶところ、と考えるならば、教員も、今の子供達の進化に合わせた授業編成を考える研究の時間はほしいところ。
部活指導を夢見て、教員になろうと思った大人以外の不幸は減る。
そして、外部の指導員が優秀であれば、生徒にとっても幸せが増えるかもしれない。

【部活の良さってなんだろう?】
学校って、必ず3年生が卒業すると1年生が入ってくる。そういう場所である。
集団であるから、学べることもあるはずなのだ。生身の人間の気持ちがわかること。
自分とは違う人間と、1つのミッションを成し遂げるにはどうすればいいか考え、協働すること。嫌いな人も許すこと。など、ちょっと精神的ではあるが、そういうことができる場は、実はとても貴重で、他にはない良さがあると思う。
音楽をつくるは、一人だけでできない。一人が自分の役割を果たすことも、他の誰かと一緒になることも同じくできないとうまくない。音楽における調和、とはそういう中から学べるものでもある。
それを、安易に代替できるかどうかは、本当に難しい課題がある。
代替措置ではなく、複数の選択肢として、どう準備するか?
地域の課題から、吹奏楽部の問題は考え出してみないと、上滑りする気がしている。