覚書


樹木希林 × 鶴瓶「家族で乾杯したいから言うてる」

 

動画の中の、「政治的なこと」よりも
「のりしろ」の話を、とても覚えておきたかった。
「ここの人間の器の幅がなくなっちゃってんじゃないか?
切ったら貼れないやつばっかり、もう少し太いのりしろ作ったらいいんですよ。

人間ののりしろ。」

そうだよね~。のりしろない人多いなー。自分が正しい!ことばかり言いがちな人。
どこか、考えの節々にそれが出ちゃう人。(これを幼いというのかもしれない)
心のうち、意識のうちに、他人と混ぜれる部分、余白、広場みたいなものがあれば、
理解しあう、みたいなこともできるのかもしれないのだけどね。

音もそうかもしれないなあ。のりしろある響き。ソロトーンだけではなく、
混じり合う幅(倍音)がある音。

常に、自分に問い続けることって挑戦だけど。例えばだけど、
毎日、部位を変えながら筋トレ絶対に欠かさないみたいな。
そういう毎日の中に「問い」が生まれていているから、
なんか、大仰な話じゃないよなって思う。大きなテーマがちゃんとあればさ。

妥協っていうのは、自分の意見の喪失ではなくて、
新しい考えへの突破口っていう考え方をポロッと聴いた。たまたま。
軽やかに、ポンッと。
これから、表出されていくものへ向かう感覚だろうか。
ま、拘泥したいことって、だいたい個人の美的ことだったりするから
こじれやすいよね。誰かと2人、3人、4人となにかを生み出したいときに、
自分だけの主張を押し付け合うだけでは、それこそ「のりしろ」が生まれにくいのだから、スッと、妥協してこれから生まれる価値のフィールドを広げる、
当たり前のようでいて、個性を勘違いしていると、なかなかうまくいかないかもしれないね。