BUT,≒BADモード

何かを買うことで1日の自分や、1ヶ月、1年の自分を測ること。

自分だけのためにできること、消費すること。
時間が奪われていくこと、スマホを眺めていること。
私達の時間は、スマホによって人質に取られていると思う。
という陰謀論者のYouTuberを見てしまい、
広告収入を彼らにプレゼントしている私達の太っ腹さったらない。

検索したり、流れている1分の動画を見続けて、そうして気づくと広告が毎日私の時間に流れ込んできて、何度も何度も、

『買ってみたら?あなたの感性にフィットするはずだよ。』
『アプリをダウンロードしてみたら?モテるかもよ。』
『服買ってみたら?めっちゃ安くなっているよ。』
思わず、ポチってしまいそうになる。本当にほしいものだったかどうかはほぼわからないまま、押しの強いアピールに、気づいたら好きになっている、みたいな。
日々の細かい集中の間に何も新しくなっていないはずの画面を何度も見てしまう。これはきっと明らかな依存を生む形式なのだと思う。

「この人はどう?趣味が合いそうだよ。」知らねえよ。
「すぐお金欲しいなら、副業どう?簡単だよ。」うるせえよ。
「その脇毛、胸毛、ひげ、すね毛。脱毛しなよ。モテないよ。」しねえよ。
みたいなことを毎日毎日言われていると、ツッコめなくなってくる。
 確かに会ってみるのもいいかも。趣味合いそうだし、タイプだわ。
 副業いいよね。今の収入じゃ足りないし、わりと時間あるし。
 そうなんだよね、カミソリで剃ると肌が荒れるんだよね。

すべての優しそうな、手書き文字のクリエイティブの裏に、
快楽的な原則に基づいた消費構造が隠れているのじゃないかと思ったりするのだ。

自分を守る、自分の機嫌は自分でとる。最近こういうことを言う人がいるけれど
誰かに守ってもらったっていいじゃないか、自分が誰かを守ってあげてもいいじゃないか。誰かの機嫌をとってあげて、一緒に機嫌がよくなってもいいじゃないか。
と私は思ってしまう。そして、それと同時に、誰も守る人がいない、誰も機嫌をとってあげる必要がない自分というのも浮き彫りになる。
自分のための時間を買うことで、人は自分らしさを取り戻せる気になっているだけじゃないのかと思ったりもする。実は自分の機嫌をとっているのではなく、見知らぬ誰かを真似して、安心しているだけじゃないのか。

すべての意味を優しそうに埋め立てて、まるで何事もなかったかのように、
そんなことはまるで意味のないことが意味のあることであるかのように。
自分の機嫌をとるために、チョコパイはコンビニで、あなたを待っている。

こういう時代における真っ当さ、とはどういうことなのだろうか?

ペテンでないことをしたい。でも、どうやって?
今の自分の大きな宿題。
「自分のやりたいこと、やりなよ」「やりたいことある人はいいよね」
「ペテンでないことをしたい」「それって何?」
「自分で考えること」「考えるってどういうこと?」