部活を考えることは、地域を考えること

地域に部活動をまかせてみようという方針が国から出ており、地域はザワザワしている。
教育現場が抱えている問題と、地域が抱えている問題、家族が抱えている問題の
それぞれが混在した場所に「部活動」はあることがより一層色濃く見えてきているからだ。

【そもそも部活とは?】
部活動において、
教員側の不勉強な正論と、その生徒が今感じている技術的・精神的なポジションの間にあるギャップをどう整理するか?また、どのコミュニケーションが一番のニーズか?は整理しないとまずい。

「学校教育の一環として」行われるものであり、「生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動については、スポーツや文化及び科学等に親しませ、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等、学校教育が目指す資質・能力の育成に資するもの」と明記されている。異年齢との交流の中で、生徒同士や生徒と教師等との好ましい人間関係の構築を図ったり、生徒自身が活動を通して自己肯定感を高めたりするなど、生徒の多様な学びの場として、また、部活動の様子の観察を通じた生徒の状況理解等、その教育的意義は高い。

文化部活動の在り方に関する総合的なガイドライン(文化庁 H30)

 とある通り、部活動とは多様な学びの場である。と定義づけられている。
コンクールに出て、勝ってこいとは(まあ書く必要ないし)まったく書いていない。


(2)望ましい部活動の在り方
〇 生徒にとって望ましい部活動の実施環境を構築するという観点に立ち、文化部活動が以下の点を重視して、地域、学校、分野、活動目的等に応じた多様な形で最適に実施されることを目指す。

・ 知・徳・体のバランスのとれた「生きる力」を育む、「日本型学校教育」の意義を踏まえ、生涯にわたって学び、芸術文化等の活動に親しみ、多様な表現や鑑賞の活動を通して、豊かな心や創造性の涵養を目指した教育の充実に努めるとともに、バランスの取れた心身の成長と学校生活を送ることができるようにすること。

・ 生徒の自主的、自発的な参加により行われ、学校教育の一環として教育課程との関連を図り、合理的でかつ効率的・効果的に取り組むこととし、各学校に おいては、生徒の自主性・自発性を尊重し、部活動への参加を義務づけたり、活動を強制したりすることがないよう、留意すること。

・ 学校全体として文化部活動を含む部活動の指導・運営に係る体制を構築すること。

・ 文化部活動の多様性に留意し、可能な限り、生徒の多様なニーズに応じた活動が行われるよう、実施形態などの工夫を図ること。


【ブラック部活としての吹奏楽をなくすという暴論】

ブラック部活と働き方改革はすごく近いところにある概念だと思う。
ブラック部活は、


顧問となる教師にとっても、生徒にとっても、過重な練習・試合などが負担となっていることを指した言葉

とされているが、部活は家庭にとっても負担となっている場合がある。
そもそも家庭がこういったブラック部活的な社会(労働環境)に組み込まれていて、学校か、社会かどちらとも言えないが、かなり「ブラック」な状況の中でも働くしかない環境設定がされている様相にある家庭があると言える。
家庭ー学校は、社会への労働力再生産のための場、とするならば写し鏡になってしまうことはたやすく想像できる。

そして、別の目線としては、学校の中での人間関係が複雑化しやすいのが「部活動」である可能性も否定できない。高校の不登校に関する理由に「クラブ活動・部活動等への不適応」をあげる生徒も少なくないからだ。顧問からのパワハラによる自殺、部内のいじめ、執拗ないじり、はぶり、SNSの問題行動(DMによる生徒同士の問題行動、SOGIハラなどなど)…。集団の中の人間におこりそうなことはだいたい、部活にも当然起こる。

今後、全部の人がハッピーに部活を行うためにされたらよいであろうことはたくさんある。以下箇条書きにおける試論だ。

【メソッド化】
・(受賞歴がほしいのであれば)短時間で全員が上手になる練習メソッドの確率
⇒効率的・効果的な活動のための指導手引(マニュアル)を各関係団体が出せと国のガイドラインは言っている。これにいち早く個別に応答した形になるのが、柏高の音楽監督である。おそらく他の吹奏楽関連団体も似たようなマニュアルを出してくるのではないか?と想像できる。


 2019年2月に開催された千葉県で行われた『「部活動のためのガイドライン」に基づいた短時間で効率の上がる吹奏楽指導法研修会』で、石田先生が配布された冊子のデータを無料公開いたします。

【部活をゆるめる】
・部活をそもそも「必ずやるべきこと」としない
・部活延長の禁止、週3回までとする等、時間的な制限を加える。
・顧問業務の縮小⇒部活動分野の縮小による職員

【外部委託部分を増やす】
・部活の外部委託化(コーチの外部委託についても国からお達しが出ている。が、指導員を誰に頼むのか?によって部活の方向性は大きく変わる)
⇒音大卒の就職先のない若者やそれに準ずる若手が、地元のいくつかの高校をかけ持ちしながら指導員として生計を立てていけるようなロールモデルがあれば、活性化するのかも。だいたい1つの県に50人そういうプロがいれば成立するはず(1県の高校数を100として1人が2つの高校をかけもちし、それぞれ10日ずつレッスンする、1回のレッスン費等を1-1.5万円とすれば、生活がまったくできないわけではないが、レッスン費がボランティア活動である場合は成立しない。)

吹奏楽は、「部活」である⇔大人数で行う「芸術活動」である のどちらをとるか?を国ー地方自治体ー教育委員会と、横断的に考えなければならないものでもある。
吹奏楽は、国の芸術振興に役に立つか?という議論の中で、音大出身者は、演奏活動以外にどう社会に開かれて生きていくべきか?ということも議論すべき。これは「音楽」は産業としてどんなありようがこれから可能か?という未来的な議論が含まれる。

強豪校→音大→演奏家以外のライフコースほぼない→フリーター→実家帰って一般企業の事務→本当に君は何をしたくて音楽を学んだの?ってことになりかねない。
※もちろん、こういうライフコースを悩んで選んだ人を否定するつもりはない。
音楽を学ぶということには、きっとほかの大学ではできない「体験」から学ぶことがあるはずだと思うので、それが活かされる仕事とマッチしてほしいと思っている。
だが、本来生徒たちが希望していたのは、ビジネスとして音楽に関わり、音楽で飯を食うことを想像していたはずなのだ。その受け皿が日本には少なく、海外のように、音楽家でありながら、弁護士だったり、といった2足のわらじをはきながら生計を立てていくようなライフモデルも社会上容認されていいはずだ。


【インフラだって整備必要】
・親が部活に迎えに行かなくても良いような交通網の整理(田舎の人なら理解してくれる気がする)
⇒入学志望の段階で「遠くてもその学校で学びたい」と思っているということは、移動については家族で担保できるのだよね?という暗黙の契約を含むように思う。
じゃあ、近いけど、自分の個性に合わない学校に行けと?という議論にもなりかねず、難しい部分である。(そもそも偏差値でその子どもたちの能力や資質を決めようとしているのが間違っているともいえるが)

【コンクール廃止と音楽の専門課程を持った高校の創出】
・コンクールをなくす(ブラック部活の多くは強豪校になりたい高校が陥りやすいのではないか?と仮説するとコンクールそのものを無くし、合同演奏会の定期化に行政側が予算をつける、くらいのほうがいいのかもしれない)
・その上で、選択授業の中で管楽器演奏ができる高校を増やす。(音楽選択をもつ総合高校や、主体的な学びの授業の中に組み入れ、音楽の道に進みたい生徒はそちらでカバーすることとし、部活はあくまで、合奏を楽しむという位置づけする。)

【校外での放課後活動としての吹奏楽
部活がない日の子どもたちには、外で遊んでから帰ってくるか、図書館に行って勉強するか、家に帰ってゲームをしているか、他の習い事を増やすかなどの新しい選択肢が生まれるが、これは家庭にとって負担を増やすことにはならないか?
お家にいられる人が誰かいれば、お腹ヘッター!と帰ってきても準備してあげられるけど、大人の目に触れていない時間が増えることは、少し家庭にとっては不安かもしれないし、放課後の時間の使い方で、学習格差がつきやすいことが言われている。
黙って部活に行っていてくれたほうが…と思う人もいるかも。

高校生向けの学童のようなところで、吹奏楽をやるっていうのも手かもしれない…。
地域ごとで1つの合同バンドのようなイメージ。一般バンドのメンバーが指導に入るような形で進めるとどうか?

 

「ブラック部活」は、教員側からのという問題提起だったことを考えると、
大勢の先生にとっては、自分の興味がない分野の部活動の顧問にさせられる不安や面倒、例えば、大会シーズンになれば、毎週末練習(少しの時間外手当)といった慢性的な働きすぎは上記のような方策で、解消できそうな気がする。学校はそもそも、新しい知識や知恵を生活の中から学ぶところ、と考えるならば、教員も、今の子供達の進化に合わせた授業編成を考える研究の時間はほしいところ。
部活指導を夢見て、教員になろうと思った大人以外の不幸は減る。
そして、外部の指導員が優秀であれば、生徒にとっても幸せが増えるかもしれない。

【部活の良さってなんだろう?】
学校って、必ず3年生が卒業すると1年生が入ってくる。そういう場所である。
集団であるから、学べることもあるはずなのだ。生身の人間の気持ちがわかること。
自分とは違う人間と、1つのミッションを成し遂げるにはどうすればいいか考え、協働すること。嫌いな人も許すこと。など、ちょっと精神的ではあるが、そういうことができる場は、実はとても貴重で、他にはない良さがあると思う。
音楽をつくるは、一人だけでできない。一人が自分の役割を果たすことも、他の誰かと一緒になることも同じくできないとうまくない。音楽における調和、とはそういう中から学べるものでもある。
それを、安易に代替できるかどうかは、本当に難しい課題がある。
代替措置ではなく、複数の選択肢として、どう準備するか?
地域の課題から、吹奏楽部の問題は考え出してみないと、上滑りする気がしている。