来外

Coming out をたくさん聞いた週末です。
実家・地元を意識せざるを得なく、家族を思う。親孝行というのも実は両親が存命でなければならないね。
家族というのはハブでもあり、きっと私の基盤でもあるのだろう。最近親御さんのことをズケズケ聞いてしまう。環境というのは大事のような気がしている。

とにかく今はテンションを下げちゃいけない気がする。

抽象的というのは極めて幼稚か極めて強いかどちらかである。強度の問題です。

具体的であることを今は自分に求めている。何故なら開かれているというのは少なくとも具体に繋がっているから。
抽象的なものが好きだし、抽象的にしか考えられない気もする。大問題だ。
何となくで出来上がるならいいんだけど〜
骨格から組上がらないんだけど〜
愚痴だね。
えへっ出来ちゃった〜
とか言ってみたい。
具体的なクライアントワークの中で大事なのは焦点を明確に、まず同じものを見ることだと思っている。
何となく、ちゃちゃっと何かできないんだよね〜。
ちゃちゃっとできるんだったら他の人でよいじゃん?
第2案第3案からつらい。
第1案だけだすのはやだなぁ〜。

ちゃんと意思表示できない作家なんて多分ビギナーズラックを越えられない。
ハードルを上げすぎているのか?
つらい。


昨日は荻窪にてお鍋など頂く。一ノ蔵飲み干す。
なんで仲良くなったんだか分からない二人でうふふな話。
ナイキのヨガマット頂く。使う!
子供みたいな同い年。音楽の趣味がいい奴、言葉のセンスがいい奴、ねくらな人、純粋な人。友達はやっぱり似ている。

ある自殺した作家のホームページには自殺する少し前までの日記が手付かずに残っている。半ば遺書だ。嘘かもしれないけど。
重たくて目をそらしたいがどうしても読んでしまう。
死にきれない自殺未遂の滑稽さを自嘲することもできず、淡々と死への恐怖を連ねることの中にグッと誰も入りこめない一瞬がある。
それはこちらにとっても絶対的に他人って思わせてくれる。すれ違うとかいうのはこういう一瞬を見逃していることの積み重ねなんだろう。あるいは口にしない独占欲の雰囲気か。

電気やさんの軒先でシャンデリアをもらってきた。シャンデリアはやたらと重くて金持ちの頑丈な天井じゃないとダメだよね確かに。と思う。昼間からシャンデリアをじゃらじゃら言わせながら歩くのは変な奴を丸出しにしていた。シャングリラ!

こんな世知辛い世の中でやっぱりユーモアは武器です。