静寂を強いられる時間としてのコンサートホール

クラシック音楽に必要な大切な要素、「静寂」。
J・ケージをひくまでもなく、クラシック音楽は静寂に支配されている。
曲間におこる大量な咳、子どもに口をそっと手でおおう母親たちの姿、
音が空間にとけいるような、ppppの中で鳴る携帯のバイブレータ
おつかれのおじさんからかすかに漏れる寝息。

音楽を愛するものたちは、まるで水や空気のように、静寂を根本原理にしている。静寂がもたらす緊張感、静寂に向かう音楽のドラマツルギー、静寂というキャンバスの中ににじむ音像、指揮が終わったあとの残響を味わうための静寂。

そして、この静寂を作り出すために、出演者も、裏方も全員が、静かにしている。
なるべく音を立てず、むだに騒がず、裏手ではみんなが「シー」と人差し指を立てている。
この静寂の強制力が、コンサートホールでのルールやマナーとして機能しているがために、クラシック音楽は、静寂をキャンバスにして、成立している。
が、その強制力が、圧倒的な排他性をもたらしているかもしれないことにも目をむけたい。
・音楽ホールに行きたいけれど、子どもがいるから行けない。
・子どもOKというコンサートでも、結果、静かな曲では静かにしなければいけない。
・少しお話しながら、曲を聞いていると、後ろから座席を蹴られる。
・ホール中に響く、キャンディの包み紙のカサカサに、すべての観客がナイーブになる。※ところで、ビニールのこすれる音ってなんであんなに響いてしまうのか?楽器として有効な気がするほどの、響き渡り方である。
・静かな空間だと、思わず笑ってしまう。
・お腹がなったらどうしよう。
・親子席があるけれど、数が少ないし、空間が密。
などなど。コンサートホールについての「音」に対する制約は、ホールへの少しの敷居の高さや、めんどくさそうさ、気遣いの強要を感じさせるには十分すぎるほどある。

『そうお思いになるなら、じゃあ、クラシック音楽を聞かなければいい』と言い切ってしまえるほど、業界には余裕がない。
ルールを遵守し、ホールを守ってきてくれた世代が、退場していってしまうという切迫した状況が、まさにそのルールによって、課題となってしまう。

キーンと耳鳴りのするような静寂を守ることを、命をかけて守ってきた制作側や、観客が作ってきたルール。

どうすればいいのかの模索がいろいろなところで始まっている。
・子供連れの家族がOKのコンサート。
・小さい子供向けの音楽ワークショップ。 など。

そして静寂だけでなく、様々な垣根が音楽ホールには存在する。
車椅子では通りにくい通路。目が見えない人が移動しにくい場内。
足が悪い人が、動きにくい客席と客席の間。
もちろん数多くのホールが垣根に対しての工夫をしていることは事実だが、
どこかで、すべての人がアクセス可能な状態になっていないことと、
クラシック音楽が構造としてそもそも持っている権威性と結びついたとき、大いに排除を生んでしまう構造がある。

そもそも、
「しつけ」や「常識」や「教養」がなければ、クラシック音楽にはアクセスできないだろうか?音楽体験の本質的な楽しさは、本当にそれだけだろうか?
(考えるためのメモとして)


・多様な入り口をつくるために、聴取者をわけて企画すること
また、そのことによる分断。
クラシック音楽の現場に誘おうとするが、クラシック音楽が彼らの生活空間にいざなわれることはない。ある種のファンタジー