Q10

今日もまたしてもメモ。最近リサーチ系のお仕事が多く、いろんな気付きがあるのだが、すぐ忘れてしまう。

20代前半の子たちを見ているとすぐ「答え」の話しになる気がする。
わたしもアラサーとはいえ、だいぶ年が離れているから、自分だってそうだったのかもしれない。

だけど、答えはないからな!自分で探していかねばならない。と思ったりして。
楽器を演奏するなどの芸事において、口伝で伝わってきたことがたくさんあるのではないかと推察している。
答えは、ググれば確かに出てくるが、ググった答えが、コードならまだいいけれど(それですらcfでしかない可能性が高い)。
音をだす、間をはかる、楽譜を読む。みたいな身体的なことだったときに
検索結果が、自分の理想的な答えであることは、まず少ない。
しっかりまとめられたものもあれば、迷言ばかりで、奏者を悩ます精神論も数多い。
「習うより慣れながら、やっぱり習って盗んで、もう一度慣れる」
みたいな循環を(PCDA)回していくほうがうまくいくだろう。
やはり、自力では難しい。先達のちからを借りたほうがいい。つまりちょっとでも習ってほしい。

答えは、文献化できるが、現実は文献化できない。
この自分様は、自分で動かさないといけない。観察眼をするどく、内観視しながら、自分の「テクニック」にしていく。
それには、この自分様の「身体」そのものがなにより大事な担保なの。


意識やイメージで、音楽の(特にフレーズ)を語られることは非常に多く有る。
困っている人たくさんいるんじゃないかな。
吹奏楽ってジャンルは、とってもたくさんの様式を演奏する。
クラシック、JAZZ風、現代音楽風、ポップス、ボカロ、もちろんロック、サンバ…。
そのどの様式も、しっかり様式感として学び取れる機会は少なく、
ただひたすらに、楽譜と指を合わせていくような「作業」をして吹奏楽と思っている、
そして、その「作業」の精度や美しさ、速さ…。そういうスペック重視の曲をミスなく演奏できることが
どうしても尊重されそうになる。基本的には間違いないと思う。作業コンテストだし。
いい先生がいればいいのに…。って思うけど
小中高の先生たちも大変なのよね。と平民装っていると、たいていその程度の時間を大量に生み出すことになってしまう。
できるだけの最善に。と思って教えに行くことがある。自分ですら最善ではないのだけど。
習ったことなら伝えられるから。

子供成長物語としての舞台なら、作業コンテストもまずまずだ。
だけど、その先、おとなになってまで、コストパフォーマンスの悪い音楽をしたい、聞いてほしいと思っている
理由は、自分の中にあってほしい。


感銘とはどこから来るのか?
いのちが、たぎるようなそういう交感が。どうやったらそういう瞬間を重ねられるのだろう。
「音楽は、感動」みたいなキャッチ、よく見るけどさ。
感動したがっているだけで、本当は対したもんじゃないんじゃないか?
と客観的にみるくらいのことはしたい。

感動と作業の間に、目と楽譜の間に、精神と身体の間に、挟まって横溢する
音のついた空気をどうしたいのか。
まだ考えている。

感情移入、心は「感じることができる」装置だとすれば、
何が感情を動かしているのか?
感情を込めたフレーズが、本当に観客に感銘を与えるのか?
心の底から、さみしいみたいな感情は、唸り声になったりする。
寒い時にさみぃいいと声に出してしまうのと同じように。
その唸り声が、フレーズの遠い奥行きを、フレーズの重さを引き出すのに有用だとは思う。
ソルフェージュとフレージングはセット。
感情は、フレージングとテンポを揺るがし、音量・音質パラメーターを動かす力がある。
音楽は運動だから。
運動と運動の間にどんなチカラがあり、どんな動機が、そのチカラの源になっているのか?
音楽のコアにある「動機」。これは様式感にもつながっているのだろうなあ。

文献と合わせて、もう少し考えていくつもり。