いきいきしにしに

・知り合いが亡くなった。死因はわからない。
《大豆田とわ子と三人の元夫》の中のオダギリジョーのセリフ。


「人間は現在だけを生きてるんじゃない。
5歳、10歳、30、40。その時その時を懸命に生きてて、過ぎ去ってしまったものじゃなくて、
あなたが笑ってる彼女を見たことがあるなら、今も彼女は笑っているし
5歳のあなたと5歳の彼女は、今も手を繋いでいて
今からだっていつだって気持ちを伝えることができる。

人生って小説や映画じゃないもん、
幸せな結末も悲しい結末もやり残したこともない。
あるのはその人がどういう人だったかっていうことだけです。」


そうであってほしいと思う。
「秘密も愉しいけれど すぐ野晒しになるよ それを笑わないで」
透明人間/東京事変
とも思う。

生きてきた個人の痕跡が、生きている私達にとって納得のいくものだけではないだろうし、それを詮索して、今更、私達はその個人を「知り直す」ことにどれだけの意味があるのか?生きている私達にとって納得のために、野晒しになるべきなことなど
多分、そんなに多くないのではないか。
どうだろう。

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テレビ番組で、最近夫がなくなり、夫の在りし日の姿を携帯の待ち受けにしたいのだが、できない。という人に、スタッフが、待ち受け画面をその画像に変えてあげる。
「心 丈夫やわ」「こうして持ってたら、自分自身がこけないような気がする」
という。
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その人がいてくれたから、心が丈夫で生きていける。
そんなパートナーと「ともに生き、ともに老いる」というライフプランが、描きにくい。そうであったら、いいのに。とも思う。
知り合いは、一人で亡くなった。

若い友達(もしくは知り合い)が持つ、なんとなく、本当に深い、当たり前に横たわる「他者は、本質的に絶対に自分の思うようにはならない。絶望的な距離感」。
もちろん、そう。合ってる。
だけれど、寄り添い合うこと、受け入れていくこと。それは不可能なのだろうか?

性役割が分担できること、あるいはお金を稼いでこれること、親が毒親じゃないこと。
自分がもっている生存スペックがどんな状態でも、それは、その人が持っているステキなところのすべてではない。
逆もそう、どんなに見目麗しい、清潔感と、筋肉と、メイク術を持っていたとしても。
それは、その人が持っているステキなところの一部。
見つけにくくても、その人が持っているステキなところに気づく人はいる。
そうか、それが難しいんだ。ってやっとこの年になって気づく。
こうやって迷っている間に、誰にも気づかれずに死ぬ。

・お金がない
インプ稼ぐ 肌色の若き君の肖像の 6年前にも見た白さ

・雪の落下
雪は鑑賞物たりうると感じた最近。
完全にコントロールされた、舞台の雪のように、等速にゆっくりと落ちてくる雪の静かでうつくしいこと。

・リアルする
駅前の スタバの前の点々の 1つ残りし夕暮れのスクロール

・音楽の
メロディが感動を与える、人に勇気与える、そんな馬鹿な!と思う。