かもす

ラローチャモーツアルトなど聞いている。
去年の春先は、アルベニスとかばっかり聞いていた。
いずれにせよ、ダンスミュージックですよ。

あ、あけましておめでとうございます。

年末は、税金のことばっかり考えていました。
日本の政治システムって、多分ずっと間違ってるんだろうなってことを思いました。
「みんな」と一緒くたにしてしまうことにためらいがある。
「みんな」は私以外のいろんな人達のこと、それは顔のある、それでいて会ったことのない人達のこと。
今日、バスで見かけたたくさんのおばあちゃん達。
彼女たちは敵ではない。

敵がいないんですよね。実際。
敵なんか、いないんですよね。みんながある程度の良心と良識を持って、
自分の家族を営んでいるという事実がたっくさんつながり合っている、というだけ。
その中に「意思」を見出すことは可能なのか?

みんなが選んだ、みんなの代表者のジャッジに少なくとも従わなければならない。
なんてリスキーだろうか、と思うのです。
国会・内閣・裁判所。
権力を見張り合う関係のはずが、機能していない。
世論については
「政治、国政を運営する上では国民世論は大変重要で、個々の世論調査は推し量るひとつの要素だ。しかし、世論調査が世論を正確に反映できるものだとは 思っていない」2011.4.25 枝野官房長官(当時)記者会見にて
とのこと。
人々の意見は、推量しかできず、そもそも世論は信じられてない。
信じられるように世論は「作られていない」。

うーん、リスキー。
判子を押した人を探して敵にすることは簡単だけどね。
判子はいっぱいついてあるのね。
わかんないようにしてあんの。

でも、ここで責任を誰がとるのか、はっきりさせておかないと、市民がバカを見続けることになる。
大事な人を失ったことの上、どんどん失うことになる。それは奪われているというのではないのか。

私たちが生きているしくみは、とっても古いと思う。
古くてこんがらがってて、みんなそのゴチャゴチャに寄生して、その中で息を潜めている。
割り切れないものを、割って、ぐるぐる、いろんな人の手垢まみれにして、責任なんてもとからなかったか
のようにしている。<終わりゆく時代へ投げキス毎度あり型通り>
#今夜はから騒ぎ 東京事変 解散。

ふと気になって『新しい文明開化』の歌詞の和訳を調べてみた。
ふふ、調べてみてね
大槌 1/6

山田 1/6

『大事な局面を考えるとき、必ず「犠牲者の方たち』のことを思う。』
と大槌のおじいちゃんが言っていた。喪失を受け入れることは、強固な固執をうむのかもしれず。
そのために、いろんなジャッジが狂ってしまっても、それを我がこととして、自らの贖罪のようにして
その地を呪いながら最高に愛し続けている。共依存のような関係を土地と人間は持ちうる、持ってい続ける
ということかもしれない。
でも
memento mori
だけじゃなかった、彼が持っている感覚は。
相続について、デリダ

『相続することは、能動的な肯定であり、それはある厳命に応えるもの、それだけではなくてひとつの批判的精神のイニシアティヴ、署名あるいは副署を前提とする。私たちは相続するときに、選別し、篩い、活用し、再活性している。
ここで論証することはできないが、あらゆる相続の指定はある矛盾とある秘密をうちに守っていると私は考えている(…後略…)。』
テレビのエコーグラフィー