第45回全日本アンサンブルコンテスト


第45回全日本アンサンブルコンテスト

やまぎん県民ホールは、客席では響きの美しいホールで、すべての音が明瞭に聞こえるホールだった。
一方で、サウンドが大きくなりすぎるとやや飽和してしまうホールであるようにも感じた。
選曲については、王道とアンコン向けに書かれた新曲・委嘱作品に大まかに分かれていた。特にクラ4「オーディションのための6つの小品」は毎年演奏されている中でも特に今年は多かった。金管は小長谷、三澤の金8、木管では田村、松下、片岡ら、気鋭の新曲が多く演奏されていた。午後の部の感想を少しだけ。


【中学校の部】

打楽器のマレットの選択、異なる楽器同士の音色の組み合わせがとても気になった。
音量だけが大きすぎる、とか、しっかり練習を積み重ねたからこその「作業感」のある団体が見受けられ、コンテスト的には減点はしにくいけれども、それ以上の音楽面の表出力(パフォーマンスではなく)や、内面の呼吸が合った演奏になればもっと良かったと思う。

志木市立志木中学校

非常によくコントロールされたアンサンブル。緊張感の持続、間合いのとり方、音色の作り方、奏者同士のコミュニケーションのとりかた。それぞれが自然で、身体の動きの中にも音楽を感じた。強いていえば、全体のダイナミクスレンジにもう少し幅をもたせるとよかったかもしれない。

佐賀市立城南中学校


「へー、この曲こんなにおもしろい曲だったんだ」と思える演奏。奏者たちが、自分の役割をしっかりわかり、他のパートの言っている意味を理解したアンサンブル。世界観も大きく、何より楽しかった。どう育てたら、こういう音楽ができる子どもたちが育つのか?生徒たち自身のキャラクターもよいのだろう。
一部イントネーションが曖昧になってしまうところや、傷がないわけではなかったので、丁寧にまた彼女たちらしく、音楽を楽しんでいってほしい。

【職場・一般の部
】

配置もあるかもしれないが、全体的に木管サウンドがナイーブで、美しい音ではあるが、ステージの外に出てくる音の根本的な響きの弱さを感じる場面が多かった。さらに、非常に内省的な音楽が多く、その人を超えていくチカラが弱く感じた。ある一定上の技術的レベルはもちろん超えているのだが、それ以上に「音楽」を表現するための譜読みにもう少し時間をかけるとよいのかな?とも。
金管については、「うるさい」サウンドと「リッチ」なサウンドは違うというのがよく分かる大会だった。
特に内声パートのバランス感と、力量、tuttiになったときの全体の響きをもう少し客観的に理解して演奏されるとより豊かな曲作りになるように感じた。



・アルペジオ吹奏楽団


昨年からとても気になっていた金管アンサンブル。どのパートも抜けがなく、演奏技術のクオリティが高い。特にチューバのサウンド、表現力。チューバ一本が本来持つ存在感を十分に感じることができた。チューバの表現の可能性は吹奏楽でもなかなか埋もれてしまうものだが、こういった奏者がたくさん増えたらいいのに…と思ってしまった。全体的に欲を言えば、より音楽として「幻影」をどう理解し、共有していくのか?といったコンテストを超えた曲との向き合い方をしてもらえたら、より鋭く、ある種のダークな諧謔性みたいなものも表現されてくるように感じる。



・Ensemble Spinel


各奏者のサウンドがずば抜けて美しく、よく響き、3本の異なった楽器同士の溶け合う響きの心地よさを感じた。 またよくスコアから音楽を読み取り、和声感やフレーズの処理、音楽の流れの自然さもよかった。
いい意味で、ちょっとアマチュアっぽくない仕上がり。もっとエグいSpinelも聞いてみたい。

・東京隆生吹奏楽

(個人的な趣味の話)
正直に言うと、あまり好きなバンドではない。
ただ、本当に上手だった。こんなふうに完璧に吹きこなしてみたい。
基本的なテクニックや、なすべきことの理解が明確で、スタッカートもレガートも美しく、一人ひとりがコンテストにおいてやらねばならないことを、ちゃんと練習して積み重ねた結果としての5分。演奏経験の豊富さからくるものなのか、安定感。特にフリューゲルのsolo。根拠のあるドヤりは説得感がある。彼らがどういう成長をしていくのか、彼らが持っているこんなに素敵なチカラを、もっと色んな人のためにも使ってほしいと願ってしまった。

 

全体の審査結果については文句は1つもない、妥当なものだと感じた。

アンコンに出るときに気をつけたいこと

今年も吹奏楽のアンサンブルコンテンストの地方大会が終わって、様々な団体を聴くことができた。
個人的に気になったことがいくつかある。

  1. 「動いてしまう」VS「振り付けをしていること」による音楽の違い
  2. 現代音楽っぽい楽譜をどう読むか?

    1.「動いてしまう」VS「振りをつけている」による音楽の違い=なんのための振付か?をよく考えて。

    これはとても気になったことの1つ。自分自身もプレイヤーとして、動いてしまう方なので、「動くな」は自己矛盾があるなと思うので、そこまでは言わないのですが、たとえば

    ①曲の盛り上がりに合わせて、配列を変える、前にでて来る、客席を向く

    ②楽譜に書いて指示のある以外の動作

    ③曲の動きが同じ奏者と完全に向き合う

    ④フレージングを合わせるために、楽器をゆらすタイミングを揃える

    ⑤キメのタイミングで全員で上を向く

    これらにどんな意味を持てばいいのか?

    積極性?積極的な音楽を作るときは、音が積極的であればよいのでは?

    表現点が増す?5分をずっと見てくれる審査員がいれば、いいのかもしれないけれど、身体パフォーマンス(振り付け)の大会ではないので、あんまり関係ないんじゃないかと思う

    例えば、立奏時の曲の終わりに、全員が客席を向いて音を出したとしよう。直接ベルが客席を向くので、たしかに審査員席に音が届くのかもしれない。

    ただ、その動きをするためにアンブシュアが崩れたら?足を動かすことに意識が向いてしまって、音に影響が出たら、なおさら意味がない。

    動くこと、振り付けることの問題点は

    ・健康的なサウンドを出すための基本フォームが崩れてしまうことによって、音による表現が損なわれる可能性がある

    ・視覚的な効果が必ずしも、いい点につながるわけでもない(と思う)

    ・振り付けのほうが音楽を超えてしまう、過剰になってしまい、「音」はそうなっていないために説得力をかく。

    →振り付けをすることが、音楽の表現点を上げるわけでは必ずしもない。

    2.現代音楽っぽい楽譜をどう読むか?=楽譜から意味を深く掘り起こす

    アンコンの曲のバリエーションも時代が1つ回ってきたのかなという印象がある。2000年後半の定番レパートリーの復活と、アンコンシーズンごとに出される各出版社の「新曲」ぽいもの、そして委嘱作品・海外のマイナー曲の増加と、団体によってカラーが出てくるようになってきている。

    かなりの割合の曲が、現代音楽っぽい何かである。私は現代音楽がとても好きなので、聴くのが楽しいが、いつも気になることがある。

    ・参考音源の耳コピで譜読みを初めて、そこに「音楽的な味付け」と称して振り付けや、アクセントの強調、楽譜にないaccelerandoなど…工夫が加わる。

    そうすることで起こってくるのが、自分勝手な音楽解釈である。

    ■楽譜から読んでいないから、フレーズの大事なポイントを逃す。

    ■テンポがゆらぐから、曲が持っているビート感が損なわれる

    ■逆に、音楽が平面的になってしまう。何がいいたいかわからなくなってしまう。

    現代音楽っぽい曲こそ、楽譜に書いてある音符をまずはしっかり読むことが大切なのではないか?よほどのことがない限り、何かの「意味」を作曲者は書き込んでくれているはず。速度や、アーティキュレーション、もっと言えば、和声の中に音楽のエネルギーも書き込んでいる。それを無視すると、本来の曲の良さが出ず、曲にならない。というごくごく普通のアプローチがとれないなら、もっと読みやすい曲をやるべきじゃないか?と私は思ってしまう。

    現代音楽であればあるほど、楽譜の中には深く様々な感情や風景や、動きが込められている。金8の名曲小長谷宗一さんの「幻影」シリーズは、都市と文明と人間の疎外がテーマになっている。足踏みをしているのはなぜか?「パラレルワールド」でチューバにミュート付きトランペットを入れて吹く(バラフォニアム)のはなぜか?王様の耳はロバの耳的な「誰にも言えない悪口」かもしれない。もしかしたら大きなものに歪められてしまう1人の声かもしれない。
    そういった現代音楽にしか持ち得ない「雰囲気」にたどり着くために、楽譜を丁寧にさらいながら、音楽を発見していく作業は面白さの1つだ。

    遠回りかもしれないけれど、特に学生のみなさんには、自分の頭を使って、めんどくさい曲を読むという作業ができるようになってほしい。
    3連符、5連符、7連符は、ゆっくり2拍3連にしたり、2+3連にしたり、自分がわかる大きさまで大きくしてから読んでみたらいい。

    そしたら、課題曲も読めるし、自由曲も読める。もっと楽に次の発表の準備ができる。なかなか部活ができない時間も増えているだろうから、LINEのグループ通話で、仲間たちと楽譜を読む会をしてもいいだろうと思う。

    ざくっとYouTubeで聞いて、なんかかっこいい、コメント欄が絶賛の嵐だった、憧れた、前年のコンテストで近くの学校がこの曲で勝ったみたいな適当な感じだけで曲を決めるのはできれば、やめたほうがいい。
    かっこいいという理由だけで、急にトリプルアクセルを飛べるようにはならない。
    アンサンブル曲には、みんなが憧れる目立つ曲以外にも素晴らしい曲はたくさんある。だからこそ、日常的に音楽だけ聴く時間をとるのも大事だ。
    自分は何に感動し、何を感じているのか?まずは自分の中にあるその部分を育てていってほしい。また、曲を決めるときにどれだけのアンサンブル曲を調べ、聞き、アプローチできるか?は学校の顧問やコーチや音楽監督のしごとの1つでもある。良識のある音楽家と出会いもまた必要だ。

    よく言われる言葉で、
    メンバーのうち1人が上手ければ、地区は抜ける
    メンバーのうち2人が上手ければ、都や県は抜ける
    メンバー全員が上手ければ、全国には行ける。

    うまいって、なんだろうね?

BUT,≒BADモード

何かを買うことで1日の自分や、1ヶ月、1年の自分を測ること。

自分だけのためにできること、消費すること。
時間が奪われていくこと、スマホを眺めていること。
私達の時間は、スマホによって人質に取られていると思う。
という陰謀論者のYouTuberを見てしまい、
広告収入を彼らにプレゼントしている私達の太っ腹さったらない。

検索したり、流れている1分の動画を見続けて、そうして気づくと広告が毎日私の時間に流れ込んできて、何度も何度も、

『買ってみたら?あなたの感性にフィットするはずだよ。』
『アプリをダウンロードしてみたら?モテるかもよ。』
『服買ってみたら?めっちゃ安くなっているよ。』
思わず、ポチってしまいそうになる。本当にほしいものだったかどうかはほぼわからないまま、押しの強いアピールに、気づいたら好きになっている、みたいな。
日々の細かい集中の間に何も新しくなっていないはずの画面を何度も見てしまう。これはきっと明らかな依存を生む形式なのだと思う。

「この人はどう?趣味が合いそうだよ。」知らねえよ。
「すぐお金欲しいなら、副業どう?簡単だよ。」うるせえよ。
「その脇毛、胸毛、ひげ、すね毛。脱毛しなよ。モテないよ。」しねえよ。
みたいなことを毎日毎日言われていると、ツッコめなくなってくる。
 確かに会ってみるのもいいかも。趣味合いそうだし、タイプだわ。
 副業いいよね。今の収入じゃ足りないし、わりと時間あるし。
 そうなんだよね、カミソリで剃ると肌が荒れるんだよね。

すべての優しそうな、手書き文字のクリエイティブの裏に、
快楽的な原則に基づいた消費構造が隠れているのじゃないかと思ったりするのだ。

自分を守る、自分の機嫌は自分でとる。最近こういうことを言う人がいるけれど
誰かに守ってもらったっていいじゃないか、自分が誰かを守ってあげてもいいじゃないか。誰かの機嫌をとってあげて、一緒に機嫌がよくなってもいいじゃないか。
と私は思ってしまう。そして、それと同時に、誰も守る人がいない、誰も機嫌をとってあげる必要がない自分というのも浮き彫りになる。
自分のための時間を買うことで、人は自分らしさを取り戻せる気になっているだけじゃないのかと思ったりもする。実は自分の機嫌をとっているのではなく、見知らぬ誰かを真似して、安心しているだけじゃないのか。

すべての意味を優しそうに埋め立てて、まるで何事もなかったかのように、
そんなことはまるで意味のないことが意味のあることであるかのように。
自分の機嫌をとるために、チョコパイはコンビニで、あなたを待っている。

こういう時代における真っ当さ、とはどういうことなのだろうか?

ペテンでないことをしたい。でも、どうやって?
今の自分の大きな宿題。
「自分のやりたいこと、やりなよ」「やりたいことある人はいいよね」
「ペテンでないことをしたい」「それって何?」
「自分で考えること」「考えるってどういうこと?」

昭和になりたい

私たちはノスタルジーの中に閉じ込められているのかもしれない。
でも、なんでか、このノスタルジ-の迷路から出られる気がしないのだ。
なぜか、「夏」の風景にとらわれたままのイメージ。
聞いたことがあるようなフレーズ。「言葉をもっと教えて」

データベース化された情報を参照しても、参照先はごく限られた消費のための回路の内にあるものだけ?(そしてそれは、道になっている?)
1990年代から、ファッション界は大きな発明ができているだろうか?
「売れる」道筋しかたどれていないのではないか?
そして、値段は安くなり、ブルシットでWORKしない労働を容認することになる。
言葉は、意味の束を失い、歴史を失い、平たくなってさまよっている。
声だけが大きい。
お金に負けるな!と言いたい。でも、みんなお金に自分の心も身体も売春してる。
すごい苦しいから、誰かのせいにしている。
パワハラ親父だって、最悪だけど、その人だって「同じ人間」って思えなくなってる。

「幸せだった時代」としての80~90年代。
参照点としての98年。
そして、ファッションや音楽リバイバルのサイクルは、消費者が2つの層にまたがることも意味する。旧流行世代と、新流行世代。

演出された、みんな同じ「幸せ」観の澄み切った世界。
2020年の多様な「幸せ」観とは違う(本当に違う?本当に「多様?」)
「名前」のあるこの私を生きるYouTuberが、テレビと同じことやったら結局負けなのでは?カートコバーンと同じなのでは?

「消費」すればするほど、同質になってしまうような感覚。
下流の制服、中流の制服。ヤンキーが持つヴィトン。

ソードアートオンラインアリシゼーション
教会が発する禁忌目録、神は紙ではあったが、人々の行いから表れるものとして描かれ、彼らはそれを順守する。
洗脳され、労働力(ソードゴーレム)化される運命の市民。
そうか、あれは市民革命だったのか…。
改革か、革命か。

昭和が、羨ましい。妬ましい。
牧瀬里穂のJRのCM羨ましい。
子供がたくさんいて、うらやましい。年金絶対もらえてる世代ずるい。
みんな価値観だいたい一緒なのずるい。
ブランドもの持っているのかっこいい価値観捨てたい。
「よいものはよい」はお金かかるってこと。って言うの卑怯。
一軒家ずるい。
個性の強いアーティストいっぱいいて楽しそう。
昭和には、ネットがないから、手紙だけで羨ましい。
VHSのザラザラした質感、いいな。
カセットテープにラジオから録音するのエモい。
ニチイで流れてたBGM、懐かしいし、カッコいい。

自己責任前夜の、誰かと誰かがまだ真剣に語り合っていたような
人間の社会から臭うもの。くささ、かぐわしさ、あたたかさ。
そういうものに対する憧れ、ノスタルジーなのかもしれない。

なにこの羨ましさ。
本当にうらやましいのかすら、わからないくらいに昭和が陽炎のように見える。

 

普通の人々という暴力

メモ程度に書き残しておきたいのだが、実は世の中で一番質の悪い人達って「普通」の人たちなんじゃないかという架空の話をする。
右でも左でもない、でも体制迎合的で、てんぷらでも「幸せ」っぽければありがたく頂戴するっていう感じ。

<普通ってこんな人っぽい>
「普通」の人たちは、わりと高学歴で、地方の国公立大学、偏差値56程度くらいの大学を卒業している。
学生時代は、ボランティアや、健全なサークル活動などにも参加。
好きな歌手は、アカペラっぽいアーティスト(Goose houseリトグリ)、ゆず、aiko、ファンモン、ミスチルソナポケあたり。
好きなブランドは特にないが、大型量販店に入っているブランドで買い物することが多く、価格的には高すぎない、そこそこのものを買いがち。意外とすぐ買っちゃう。
タケオキクチコムサイズム、ikkaあたりとユニクロ無印良品(アパレルは買わない)、モンベル、なんとなくノースフェイス。
サブスクは、Hulu、Tver。ネットフリックスや、アマプラを契約するほどには映画に興味がない。
映画は、なんとなく流行っている邦画の泣けそうなやつを年に2回くらい行ったらいいほう。
居酒屋は、わりとどこでもよいほうだが、コロナで飲む回数を極端に減らしている。
地方の有名店には、1回か2回行ってはみるが、場になじめず3回目は行かずに、食べログ評価3.5、飲み放題付き4000円みたいな居酒屋を予約しておけば安パイだと思っている。
仕事は、教員、東京資本の地方支社、一般商社が多く、年収350万~600万程度。

「普通」でありたいというのは、大きな消費の原動力になるものだと思う。
「普通」というのは、格差が広がる社会の中で、排他的な人間の層だと思う。
「普通幻想」にとりつかれていると、「普通じゃないもの」を排除することを「普通」だと思っている。が、ちょっと育ちがいいので、表立って排除はしない。
善良な被害者として、『普通じゃないのだから、それはおかしいのだ』と言い『普通じゃない人によって自分の普通は侵されたのだ』とも言う。

<普通の人のマウンティング例>
 ・学歴マウント(大卒、高学歴卒以外の人はバカ)
 ・心理的マウント(自分は普通コースを歩んできたから、そうじゃない人はバカ)
 ・常識マウント(外見や行動をつぶさに観察し「常識」的でないと判断すると、誰か「誰にも言わないでね」とか言いながら悪口を言い出す)
 ・持ち物マウント(家、車、服などの所有物が「ちょっと有名」じゃないものに対してわからないため、異質と判断し、「意識高い」などとして自分と同じ目線ではないとする)
 ・仕事できるマウント(自分の時間を大切にしたいと言い出しがちで、効率的なものを好む割に、効率化した結果どんなことが起こるかまでは想像がつかない。)


身体的、財、消費によって現れる「普通」さは、血統的に相続される場合が多い。
「普通」を「目に見えるもの」「指標」「Excel的数量」に変換して考えることを、ごく当たり前だと考えており、人の評価は「数的」になされうるものとして信じてやまない。また、一般企業はこの「数的な価値指標」を、賃金としても可視化するが、
実際に、その労働がどれほどの価値を生んだのか?についての評価ではないことも多い。
つまり、普通の人間がデイビッド・グレーバーが言うところの「ブルシットジョブ」を知らずにうちに容認している可能性は、意外と高い。
と同時に、誰もが「自分の仕事はブルシットジョブではない」と思いたがる。

普通の人は、『人生の「夢」そして「希望」「団結」という小中学校の目標みたいなものを自分の中に胚胎させ、育ててゆくことが、「幸せ」につながる』という回路を持っている。これは「夢」を持つことが、教育の中における「進路」やライフコースのデザインに必要なものとされ続けてきた結果、「夢」がなければ「幸せ」になれないのが人生なのだと思わされることが「普通」だからだ(ex:ドリームハラスメント)。「普通」であるためには、ある程度勉強をし、競争をし、自分の偏差値以下の人を(見知らぬうちに)蹴落とし、自分と同じような教育環境の下で育った生徒がいる高校や大学に行き、「大学の名前」で就職するコースを走る必要が必ずではないが、ある。
「夢」の先に「ブルシット」が横たわっているという可能性。
これの何がいけないのか?
 不可視化されている外部への想像力が働かないということが問題。もっと深く意味に接続する手段はないのか?
「普通」は社会構造の問題でもある。自分を「量産型だ」などとのたまっている場合ではない。

普通なんてやめたほうがいい、体に毒です。
だし、このまま「普通」を積み重ねて、世の中をつくっていくことがたぶんとても難しい。普通の犠牲になってしまう若い人たちの人生を搾取してしまうことになる。「普通」という感性は、生きる人の尊厳を奪うタイプの性質のものじゃないかと。

 

逆に、人を「普通」という枠に押し込めて、勝手に主語を大きくするタイプの考え(このブログ記事そのもの)も、全然中道じゃない。

メメンメモ

最近考えていることが、ごちゃごちゃしてきたので、一回ラフに書いておくメモ

  • コロナウィルス(with コロナ/after コロナ)
    民衆レベルでガイドラインを引くなどの工夫ができなかったのか?
    これからもパンデミックが起こりうる未来を想定すると、どんな生活をすれば、
    だれも死なずに人間らしくいられるのか?
    人が集まることで生まれる価値は水平に互換できる可能性があるのか?
    「あいつコロナじゃね?」「あいつなんでマスクしてないの?」みたいなまなざし怖いよね。なんでも調べて犯人を見つけようとする社会。(清浄化みたいな考え方)
  • 電通
    電通は、政権の代理店もやっているので、仕方ないと思う。
    ただ、公平性を担保したコミュニケーションを本件ではデザインできていない点において、代理店のよさを最大限発揮できているとは言いにくい。
  • セクシャルハラスメント
    正義と思ったら、裁判を起こすっていう手法はとても良いと思う。
    (でもなー、裁判官がもし偏りのある考えを持っていたら、きっと負けてしまう。)
    公平性とはどう担保されるべきか?
  • オカマ差別語じゃない説
    人を傷つけるのに使われる言葉であることに間違いない。
    オカマは、いろんな方法で自分を表現して生きているように見えるから、何言ってもいいと思っているのかもしれないけど、普通に人だから。平等だから。
  • 高校生拳銃で自殺
    拳銃どっから?
    なぜ死ななければならなかったのか?
  • #Black Lives Matter
    差別には、必ず歴史があり、固定化されてしまった「問い」の上にある。
    誰もその「問い」に有効な答えを見つけられていないことは、人類にとってまずいこと。たとえ権利が条約になっていても、守らない国もある。まさに日本である。そして、それは地域の歴史や、名物の食べ物が生まれた理由の中にも埋め込まれていることを忘れてしまう。ヘイトは「デマ」や「思い込み」や「邪悪なもの」によって引き起こされ、増幅されて、歴史にインクをたらし続けている。
    権力構造とすぐ結びつき、先鋭化したものが、政治と結びついてしまうことが怖い。
    人がたくさん殺された戦争と同じくらい、偏見によって殺されていったり、人として生きることをはく奪されながら、生き続けた人たちのことも忘れないようにしないと。
  • SNSにおけるヘイト(もはや殺人)
    けみおが「どないなんだが!」といっていて、ほんとに「どないなんだが!」って思っている。すごくあこがれていたグラフィックデザイナーのいいね!欄が、私からは偏って見える政治に関するものばかりだったりするのを見ると、あーあって勝手に思ってしまう。
    もちろん、それを否定したり、おとしめたりするつもりは全然ないけれども、
    この人たちの仕事でさえ、その政治は奪っているように見えるのだけど…。と思ってはしまう。
  • 管理と自由(liberty)
    人を「いい」「普通」「変」と一発で決め込み、管理のまなざしで、排除を求める人がいる。「普通」であることを強要する、なぞの正義観、道徳観。
    垂直的序列と水平的画一化(ex:本田由紀)が徹底され、ハイパー教化された人間は実はすでに多くいるのではないか?真面目であればあるほど、内面化されやすいのではないか?と思ってしまう。そういう人達、自分の幸せをマジで考えてください。
  • BTS
    "What is your name? Speak Yourself"
    これはいいこと言ってる。「問い」には、聞いてくれる人が必要。価値観の押し付けのための言葉は議論でも対話でもない。
    1人1人の命や、尊厳や、権利や平等っていう当たり前のものに、もう一度「問い」が必要。まったく自明のものではなくなってしまった。そもそも「問い」続けることによって自明になる類のものをほったらかしておいて、抜け殻を殴っているみたいな感じ。
  • デザインの時代からアートの時代?
    デザインって設計という意味。
    思いつく領域>功利性、利便性、創造、管理、統一、論理、モラル、改善、系統的
    アートは芸術。
    思いつく領域>ビジョン、妄想、未来、理念、経験的(体験)…
    審美眼的な話と、知識か経験かみたいな議論、あるいは妄想というキーワードが最近目につくようになった。そして歴史はデザインとアートを行ったり来たりしている。なぜだろう?