ぱゅ
長谷川白紙「魔法学校」
Outside(Soto)、すごい。
長谷川白紙の楽曲の中には、彼のクローゼットの中にいる大量の魑魅魍魎たちが
共演している。
音響的にもたらされる複数のドロドロとした、異形のモノ(妖怪で出来たnoir kei ninomiyaのドレス)。サンプリングして切り刻まれ、繋がれたノイズによって拡張されていく「身体」。誇張して見せる「キャンプ」的な手技。
あるいは、自明に「否定」されてきたもの、西洋化するために「メソッド」化したもの、歴史の中で「加工」を強いられてきた身体へのしつけによって、価値化されることがなかったものを見出そうとする提示。
レーベルが決まり、彼はこれから、キャンプな手法で世界に、この魔法を伝えていくことになるのだろう。
(大事な言葉だとおもうので、下記を引用する)
——音楽は、新たな身体を語り始めることができるように思えます。そしてそれらは既に、多くのアーティストやクィア理論家が、多様な手法で達成してきた事実でもあります。
ライブ・エレクトロニクスは、演奏する身体を「変形する」手段となり得ます。わたしは、変形という言葉を、「加工」や「変調」の単なる言い換えとしては用いません。それは身体と音響の間に横たわっている規範を明るみに出し、その構築の過程においてこぼれ落ちてきた自明でない身体の形を発見するための試みです。そして、拡声はその最も明快で強力な例です。 …(中略)…伸長と拡声という二つの手段を用いて、身体と音響の間を撹乱し、様々な形態の失敗を生成します。そしてそれらの拡声は最終的に、本来設定された目的とは異なる用途に向けて異化されます。わたしは本作の末尾を、拡声行為そのものを捉え直すために設定しています。
Outside(Soto)、今までとは考えられないようなポップスとしてわかりやすいフォーマットに乗っていることに驚く。
東京ゲゲゲイの『カーテンは開かない日曜日』を引き合いに出す必要はないのだけれど
家にいる、外に出られないことの「温かさ」と外に出たいことの「あこがれ」との
近さに感じる。
長谷川白紙の歌い手としてのマイク乗りのよい声。透明感と、無重力感(苦しくて、透き通っていて、ゆがんでて、柔らかくて…まさに)を
もっとも味わえるのは「夢の骨が襲いかかる!」の中でも『シーチェンジ』だろう。
長谷川白紙本人の身体として、まったく拡張されない、誇張のない、
ただの長谷川に興味がある。(そういう興味を退けたくて、ある種ドラッグクイーン的な加飾をしているのに?、こういうこと言っちゃいけない気もするのだけど)
なぜなら、彼が作り出す構造にある、抽象的な言い方になるが、根本的な善性が、彼の音楽を保っている最高の部分なんじゃないかと私は感じているからだ。
でも、しばらく彼と世界との抗争に参列したいと思う。
いつか、長谷川白紙が書く、シンフォニーを、室内楽を聴いてみたい。
西洋化されなくては弾くこと・演奏することの出来ない、私達が自明に受け取っている「クラシック音楽」を、(日本人)としてどう撹乱させて、投げ返すか。
(そういう仕事は、別の人がやればいいよね…それもわかってるよ)