その沈黙のありかは。

食べものを作ることを生業にしている友達の家に遊びに行って、
一番楽しみなのは、その包丁さばきをみることだったりする。
迷いなく、ストン・ストンと食材を切り分けていく様。
思っていたような繊細な力運びではなく、結構躊躇なく、ストン・ストンを
切っていくから、潔くて心地よい。

なんでこんなに迷いなく、切っていけるんだろう。

なんで?って聞いてみると、答えは簡単だった。
「もう、決まっているから。」

彼女が「料理をする」というのは、もっともっと早い段階から始まっている。
まな板にたって、包丁を持ってから料理するのではなく、
大分手前の時間から始まっていて、あらかたの計算、あらかたの準備、
全体の設計図をあたまの中にくっきりと描いて、
(そして、ものすごくその時間は短く、正確なのだろうと思う。)
材料を整えるために包丁を持つのだ。
だから、材料の形はその設計図の仕様に正確に切られればよく、
材料の形、よさをどう設計図に含むか、というフィジカルなレベルの話に移っていく。
手触り、かおり、硬さ柔らかさを身体センサーで感じ、情報を統合しながら
素材の気持ちになってみたりする。
「どうなりたいの?」たまに聞いてみたりするのだという。

別の友だちが淹れるコーヒーの手さばきも、無駄がなく一定。
やかんから、流れるお湯が、ガラスのなめらかな棒なんじゃないかと思うほど
止まって見えるくらいに一定。
なにか、儀式めいたものにも見える。

彼らは圧倒的に、繰り返し繰り返し、繰り返している。
自分の味の設計図を作るために、どれだけの時間、
どれだけの材料を切ったり、やかんを持ったんだろうか。

ものづくりは、
どうしても感情みたいなことや、思い入れみたいなこと、
想像する力みたいなことばかりがクローズアップされたりする。
多分、受け手側が、心を使って表現を頂くからだと思う。
そして、作る側も、そういう気持ちになってほしいなと思っている。
だけど、作る側には「そうなってほしいな」の設計図を淡々と、着実に繰り返す
能力を発揮するというある一種の使命みたいなもの、一皿、ひとさじ、
1分、そういう時間、体感する身体への献身みたいな行為が連なる
孤独な過程があるものなのじゃないか、と私はちょっと思っている。
だから「いただきます」は、そこにあるべき言葉として響く。

そして、音楽も小学生であろうが、おじさんだろうが
そういう時間のために最もフィジカルで、
最もクリティカルな時間を積み重ねなければならないものではないか
と思っている。
1秒に、いくつの音符を連ねるのか、その音符は、次のストーリーに
どうつながるのか。毎秒毎秒のジャッジの連なりであるのじゃないのか?
そして、言葉にならない世界を、時間と空間に定着させる行為でもある。

「愉しみ」という言葉は、上手な人のためにある言葉のように思う。
なんでもかんでも「楽しい」わけがない。