最近考えていることが、ごちゃごちゃしてきたので、一回ラフに書いておくメモ
- コロナウィルス(with コロナ/after コロナ)
民衆レベルでガイドラインを引くなどの工夫ができなかったのか?
これからもパンデミックが起こりうる未来を想定すると、どんな生活をすれば、
だれも死なずに人間らしくいられるのか?
人が集まることで生まれる価値は水平に互換できる可能性があるのか?
「あいつコロナじゃね?」「あいつなんでマスクしてないの?」みたいなまなざし怖いよね。なんでも調べて犯人を見つけようとする社会。(清浄化みたいな考え方) - 電通
電通は、政権の代理店もやっているので、仕方ないと思う。
ただ、公平性を担保したコミュニケーションを本件ではデザインできていない点において、代理店のよさを最大限発揮できているとは言いにくい。 - セクシャルハラスメント
正義と思ったら、裁判を起こすっていう手法はとても良いと思う。
(でもなー、裁判官がもし偏りのある考えを持っていたら、きっと負けてしまう。)
公平性とはどう担保されるべきか? - オカマ差別語じゃない説
人を傷つけるのに使われる言葉であることに間違いない。
オカマは、いろんな方法で自分を表現して生きているように見えるから、何言ってもいいと思っているのかもしれないけど、普通に人だから。平等だから。 - 高校生拳銃で自殺
拳銃どっから?
なぜ死ななければならなかったのか? - #Black Lives Matter
差別には、必ず歴史があり、固定化されてしまった「問い」の上にある。
誰もその「問い」に有効な答えを見つけられていないことは、人類にとってまずいこと。たとえ権利が条約になっていても、守らない国もある。まさに日本である。そして、それは地域の歴史や、名物の食べ物が生まれた理由の中にも埋め込まれていることを忘れてしまう。ヘイトは「デマ」や「思い込み」や「邪悪なもの」によって引き起こされ、増幅されて、歴史にインクをたらし続けている。
権力構造とすぐ結びつき、先鋭化したものが、政治と結びついてしまうことが怖い。
人がたくさん殺された戦争と同じくらい、偏見によって殺されていったり、人として生きることをはく奪されながら、生き続けた人たちのことも忘れないようにしないと。 - SNSにおけるヘイト(もはや殺人)
けみおが「どないなんだが!」といっていて、ほんとに「どないなんだが!」って思っている。すごくあこがれていたグラフィックデザイナーのいいね!欄が、私からは偏って見える政治に関するものばかりだったりするのを見ると、あーあって勝手に思ってしまう。
もちろん、それを否定したり、おとしめたりするつもりは全然ないけれども、
この人たちの仕事でさえ、その政治は奪っているように見えるのだけど…。と思ってはしまう。 - 管理と自由(liberty)
人を「いい」「普通」「変」と一発で決め込み、管理のまなざしで、排除を求める人がいる。「普通」であることを強要する、なぞの正義観、道徳観。
垂直的序列と水平的画一化(ex:本田由紀)が徹底され、ハイパー教化された人間は実はすでに多くいるのではないか?真面目であればあるほど、内面化されやすいのではないか?と思ってしまう。そういう人達、自分の幸せをマジで考えてください。 - BTS
"What is your name? Speak Yourself"
これはいいこと言ってる。「問い」には、聞いてくれる人が必要。価値観の押し付けのための言葉は議論でも対話でもない。
1人1人の命や、尊厳や、権利や平等っていう当たり前のものに、もう一度「問い」が必要。まったく自明のものではなくなってしまった。そもそも「問い」続けることによって自明になる類のものをほったらかしておいて、抜け殻を殴っているみたいな感じ。 - デザインの時代からアートの時代?
デザインって設計という意味。
思いつく領域>功利性、利便性、創造、管理、統一、論理、モラル、改善、系統的
アートは芸術。
思いつく領域>ビジョン、妄想、未来、理念、経験的(体験)…
審美眼的な話と、知識か経験かみたいな議論、あるいは妄想というキーワードが最近目につくようになった。そして歴史はデザインとアートを行ったり来たりしている。なぜだろう?