しくみんぞく

意味とは、「言葉単語用語など)が持っている概念のこと」らしい。
言葉は知っているけれど、意味に触れていない使い方をする人が増えているような気がしている。
概念に含まれる「歴史」。その深み。メタ的なもの。それらをコードとして私たちは共感しているはずではなかったか?
言葉の前で思考停止しているのが当たり前のように感じることがある。ネタとしての文字列は、言葉ではないと言ったら、言い過ぎだなあ。
わかりやすい、パッと見は、その言葉を表出していそうなものには、別の言葉を当ててあげたい気もするのだが…。
それとも、現在進行形で進んでいる事象は、あまりにも多様なあり方があるから、言葉は特定の意味の入れ物ではなく、雰囲気やまとまりを表象する、タグのようなものになってしまったのだろうか?

昔、友だちと話していて、「あなたとは持っている辞書が違うのだから、お互い頑張って意味をわかり合わないと、コミュニケーションとしては成り立たないよね」と言われたことがある。その時、やっと自分の言葉が、極めて私秘的な言語であることに気づくことができた。今も結構かなりの割合で、私秘的な言語でコミュニケーションしている気がするけど。
 公共的な言語が、今なんとなく、ふわふわしているような気がする。言語は、存在によって立ち上がるものだとすれば、存在の群れである社会がふわふわしているのかもしれないし、群れの中で共感していることなど実は、とても少ないのかもしれない。

そう、彼がその後言ったのは「本をたくさん読むこと」ということだった。
言語が社会なのであれば、本の中にあるたくさんの概念、歴史、作家の勘違い、いろんなものを受け取るために、本を読めと。

本は読んだほうが本当にいいと思う。手法は問わないけれど。
自分だけが感じた、言葉の手触りが、世界の手触りになるときが必ずある。
その言葉にだけ宿る魅力がある。
自分で語りたいことがあったとき、言葉がないのはつまらない。
それは、口を通しても、手を通してもいい。言葉が、あったほうがいい。
誰かの言葉ではなく、自分の言葉。

だんだん、きっと、そういう人が少なくなるときが来る気がする。

もちろんダメと言われればやめます。『俺スカ』のときに、のぶおの家に入り浸っている娘の元カレと今カレをまとめて「おいそこの東大と外人」と呼んだら、プロデューサーに「すみません、『外国人』でお願いします」と言われたので、「分かりました」って言い直しました。

どんな言葉でも使い方によっては差別的な含意をまとわせることができる。それを、事前に検閲するみたいに、一律に使わないようにする今の空気感は、民度が低いと思うんですよ。

 

言葉って本来、豊かなもので。寺山修司さんの美しい詩の中にも、今の空気で忖度すれば危険な言葉はいっぱい出てくる。そういった言葉を使わなくすることは、その言葉によって醸し出されていた情緒も一緒になくしてしまうことだと思うんです。それがどんどん進行したのがこの30年だった。

もしかしたら誰かを傷付けるかもしれないし、心ない人によって差別用語として悪用されることもあるかもしれないけど、それ自体を笑い飛ばすっていうのかな。それができるのが演劇だと思う。

 

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