とある

昨日は、お芝居を観に行ったので考えたこと。

不思議の国のアリスと、ピーターパンという話を行ったり来たりしながら、
メタフィクションとして、演劇を様々な仕掛けで外部化してみせる手法。
メタ発言が多く、広がる世界はちょっと懐かしいCMから野田秀樹、お笑い芸人から、過労自殺まで。
多岐にわたる、引用で、あべこべな演劇空間を観客と共有することに成功していた。

・冒頭は、落語で言えば、「まくら」の時間で「将来の夢」の話。
実は、すでにこの時間は本編で、シンメトリーな構成として、ラストでまくらを回収する。
ストーリーとしては、自分の「将来の夢」=今までみてきた「たくさんの夢」は
過去の幼かった自分が持っていたことにして、
今となっては、自分の手で「夢」を葬ってなかったか?という「夢」オチ。

・主人公が、台本上5ページに及ぶ(とされる)長台詞(長ゼリ)を話そうとすると
裏から役者達が「長い」からやめて、ちょっとだけにしてよ!とツッコむ。

・アリスが摩訶不思議な穴に落ちて、うさぎたちに説明を求めるも、
「役所」のたらいまわしの如く、断られ、しまいには誕生日と言われる。
不思議な世界は、社会が我々の身体に求める「理不尽さ」ともリンクし、
作者の社会に対する「意味のわからなさ」を当て込むにもちょうどよいモチーフだったのかも。

・「あの音はもう聞こえないんだろ?」からのSEでモスキート音。

・ピーターパンの国では、ピーターパンたちが麻雀。
歩合制の「海賊」の就職の決まったクック。
ウェンディは、就職先から内定をもらい、みんなと麻雀なんかしてられっかという気持ちと
本当に、働くのかしら、大人になるのかしら…。という気持ちを
いわゆる「ピーターパン症候群」と就活を絡めて、その間に潜んでいる責任や社会性を
放棄しているものに対するちょっとしたディスり。(むしろそこに作者本人がいるのかも)

・「ママ」と呼ばれる人が心にささやく。
2人は、時空を超えて、アリスの国へ。そこは過去の自分と退治する場。
「なぜ、今の自分に至るのか」をトレースするために過去に遡るも、
明確な答えは出ず、ベタな「母の愛」が少し滲むだけであった。
小道具としての「千歳飴」は非常に効果的。
<ねこのくだりと、ピーターパンとのラップ対決等をはさみつつ>
・ピーターパンは就活し、コミュニケーション能力も優れた人材となっていた。
「会社」は、マニュアル化され、代替可能な部品としての労働力、
属人的な采配による退職勧告が同じリズムでループし、
加速する中、アリスは、ピーターパンと2人になる。
・ピーターパンを殺した罪を問われるアリス。
ピーターパンとは、過去の自分の「夢」だった。

【身体−言語】
まず、役者の身体がペラッペラであったこと。
いわゆる「現代口語演劇」的な手法を、演劇的な身体を体得していないまま「演じる」こと。 
今となっては普通になったこの手法も、ここまで役者の素がだだ漏れてしまうとペラッペラだなと。
逆に、ペラッペラであることが、
1人でたくさんの役柄を演じ分ける、あるいは「だれの声なのかわからない声」を
イタコのように言わせるにはピッタリだったかもしれない。
演じ分けるのではなく、言葉を素通りさせて、お客さんに届けるための装置、のような役者の使い方だった。

役者自身も、おそらく、この脚本の本質みたいなところまで、身体で理解していないような印象があった。
これは、単純に役者の想像力を脚本が何倍も超えてしまっていて、理解できなかったが、
演出上、そういうことをやっているのかなあと邪推した。
つまり「キャラ」になりきることが、この脚本に求められていた役者像ではなく、
メタ的に「役者本人」がそこで何をするのかを深く脚本家は、役者に問うているということ。
ダンス的な要素のシーンでは、ヨレヨレだし、麻雀のシーンが1番身体として見ていられる。
役者たちもありのままの自分で、出てきてしまっている。
多分、本当にあれ以上は怒れないし、悲しめないってことなんだと見ました。
ハンプティダンプティの自殺ループは、果たしてあの演出でよかったのか?
なんらかの重たさを持たせなくてよかったのか?
靴が積まれている、という物量的な「画」がある種の、切なさや重さが
もっとビビットにわさびのように効果的に効かせられるシーンでもあった。
そういう意味で、身体の代替可能性を逆の意味で(だれでもこの役ができる)
表現してしまっていたことも、興味深かった。

【言語−身体】
また、脚本自体も、脚本家の「声」が散りばめられているだけであって、
複数の、人間が立ち現れる感じがしなかった。つまり脚本家の独り言に聞こえるということだ。

引用されている「声」は、事柄の意味や奥行きではなく、
引用されている事柄のWEBニュース的をちら見する感じで使われていたのも印象的。


最近、20−24歳くらいの人と話していて思う。
なんかInstagramでLIKE!もらえることなら、なんでもやるみたいな感じ。
そこでファボ&リツイがないと無視されていると感じているのかなっていう。
スペックありき、わかりやすさありき、写真写りありき、難しそうなことは四コマありき。
鬱とアゲと死にたいと、ネタありき。
すぐ手段にでる(別れたらブロック)というか。
わかりやすく量産された(ソーシャルな)意味合いをまとったキャラとしてしか人間を見ていないのではないか?
人間そんなに簡単じゃないんだぜって思う反面、
人間ってそんなもんでしょと言わせている世の中の少しセンパイなのだなと思ったり。

今の30−40歳が作るものは、基本的には「俺美学」にもとづいているので、
ペーソスが含まれ、悲哀が含まれ、ノスタルジーにまみれている。
田舎ノスタルジーNEOGEOノスタルジー、90年代ノスタルジー
つまり、極めて自閉的な表現を持つものが多い(セカイ系の生き残りゾンビである)。

若い彼らは、そこをあっけらかんと乗り越えてくれそうな軽さがある。「ソーシャル美学」だ。
あんまりたくさんの感情や思い出は溜め込まず、困ったらログを漁ればよい。
その場でキャラに必要な記号を(安く)買えばよい。思想的な清貧さみたいなものすら
感じる。この作品ではピーターパンの「ネバーランド」は「ネイバーランド」と言われていた。
「近隣世界」つまり、同質化されたソーシャル地獄のことと理解した。
※社会性を帯びた「美学」ってすごく矛盾しているし、意味がよくわかっていないのだけど
ちょっと感覚的に使わせて下さい。共的な私に叫んでいる共的な「私的」。
【参考】http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/attached/0000056013.pdf

全体を通すと、すべてのセリフや表現は軽く、湿っぽくなく、ドライに、
メタ化していった結果、浮き上がってくる自己肯定感の問題と、
社会に求められる「一般化」された人間に、なれるのかななれないのかな、
自分は何者なのかなというあたりの、大きな命題を
照れ隠しみたいに、様々なキラキラでまぶして90分にまとめた。

それでも言いたいのだ!!ということは脚本家のエゴであって、
それが表現者としてのコアならば、聞き入れたいと思った。
真摯に自分に向き合うことが、演劇ならばそれはすごく大事なことをしていると思う。
だけど、それは演劇セラピーなのだ、と思う。
このセラピーが、非常に有効な構造を持つことになったこの作品は、
自分らしさにフィットする世界を探し続け、こじらせてしまった「夢」の中に
たくさんの世代の観客たちが、実はまだ「その只中」にいるという
悲しい現実をあぶりだした点において、この作品の良さが有ると思う。

もっと、劇空間でしか活かすことのできない言葉を探すといいのかなと思う。
最後の白ウサギの説教は、もっと別な言葉で、もっと仕留めることができたのかもしれない。
「ママ」のシーンの幻惑的なシーンは、アニメっぽくしてしまったけど、
何か別の要素で言わせられたかもしれない。

もっとせのびしてみてください。
彼らが成功するロールモデルは、この地域には多分ないので、どんどん外に出ていくべきだと思う。