ものかもの

大学時代の友人、とっても好きな。の、皿を買った。
めちゃくちゃ最先端のテクノロジーを学んでいた彼は、なぜか多治見に行き。
陶芸を学んだのだけど。
今では、「きっと界隈では、ちょっとした噂」になるような、ピュアそうな外観と裏腹の、ヨーロッパの修道院の奥底からそっと時を隔てて、見つけられたみたいな質感の陶を作っている。初期の作品を2つ、地元に戻るときにくれた。今でも使っている。
不思議な色の、べっ甲のようなふっくらとしたツヤがある、金属的な質感の皿。

5年前?6年前に名古屋のHUBでなにかよくわからないけど、好きとしか言っていないみたいな、本当によくわからない、火だるまのようなビールの飲み方をして、おんぶをして、駅まで送っていった。出張だった気がするけど、すごく楽しかったな。

私は、皿を買ったのだろうか?
それとも、彼の今を見たくて思わず、買ったのだろうか?
写真で見るその器に、すでに、彼の雰囲気を感じた。
その器は、彼の好きな人のような気がする。
好きな人を形にしてみた。みたいな感じもするし、
まったくもってそうでもないような気がする。


多分、彼のものだとわからなくても、今回の皿を私は買ったと思う。
ものって結局、意味なんかそんなにないのよね。
うーん、意味しかないけどさ。機能的な意味とかさ。
皿だったから、空白の、空間を隔てて、なにか乗りそうな雰囲気っていう意味があるけどさ。
ものとしての「成り」ってのは、持つ人や、置かれる場所での照らされ方によって変わるよなって思う。人の「成り」もそうかもしれない。
と同時に、彼の器を好きだなって気に入ってくれる人がいれば、私はその人の感性と友達になりたいし、そう考えると、ものは、感性を伝えるメディアでもあるな。
そういう「ものとの出会い」をしたいなと、だんだん思ってくる。
かわいいね、とかそういう言葉じゃなくて、「このもの」といたいなっていう
気持ちを引き出してくれる「もの」をもっと見たいなって思う。
乗り移っているものに、もっと目を、耳をそばだてていたい。
それは、音楽的、でもあると思った。ものから立ち現れる音楽。

彼の「今」が乗っかっている皿、早く届け。