昭和になりたい

私たちはノスタルジーの中に閉じ込められているのかもしれない。
でも、なんでか、このノスタルジ-の迷路から出られる気がしないのだ。
なぜか、「夏」の風景にとらわれたままのイメージ。
聞いたことがあるようなフレーズ。「言葉をもっと教えて」

データベース化された情報を参照しても、参照先はごく限られた消費のための回路の内にあるものだけ?(そしてそれは、道になっている?)
1990年代から、ファッション界は大きな発明ができているだろうか?
「売れる」道筋しかたどれていないのではないか?
そして、値段は安くなり、ブルシットでWORKしない労働を容認することになる。
言葉は、意味の束を失い、歴史を失い、平たくなってさまよっている。
声だけが大きい。
お金に負けるな!と言いたい。でも、みんなお金に自分の心も身体も売春してる。
すごい苦しいから、誰かのせいにしている。
パワハラ親父だって、最悪だけど、その人だって「同じ人間」って思えなくなってる。

「幸せだった時代」としての80~90年代。
参照点としての98年。
そして、ファッションや音楽リバイバルのサイクルは、消費者が2つの層にまたがることも意味する。旧流行世代と、新流行世代。

演出された、みんな同じ「幸せ」観の澄み切った世界。
2020年の多様な「幸せ」観とは違う(本当に違う?本当に「多様?」)
「名前」のあるこの私を生きるYouTuberが、テレビと同じことやったら結局負けなのでは?カートコバーンと同じなのでは?

「消費」すればするほど、同質になってしまうような感覚。
下流の制服、中流の制服。ヤンキーが持つヴィトン。

ソードアートオンラインアリシゼーション
教会が発する禁忌目録、神は紙ではあったが、人々の行いから表れるものとして描かれ、彼らはそれを順守する。
洗脳され、労働力(ソードゴーレム)化される運命の市民。
そうか、あれは市民革命だったのか…。
改革か、革命か。

昭和が、羨ましい。妬ましい。
牧瀬里穂のJRのCM羨ましい。
子供がたくさんいて、うらやましい。年金絶対もらえてる世代ずるい。
みんな価値観だいたい一緒なのずるい。
ブランドもの持っているのかっこいい価値観捨てたい。
「よいものはよい」はお金かかるってこと。って言うの卑怯。
一軒家ずるい。
個性の強いアーティストいっぱいいて楽しそう。
昭和には、ネットがないから、手紙だけで羨ましい。
VHSのザラザラした質感、いいな。
カセットテープにラジオから録音するのエモい。
ニチイで流れてたBGM、懐かしいし、カッコいい。

自己責任前夜の、誰かと誰かがまだ真剣に語り合っていたような
人間の社会から臭うもの。くささ、かぐわしさ、あたたかさ。
そういうものに対する憧れ、ノスタルジーなのかもしれない。

なにこの羨ましさ。
本当にうらやましいのかすら、わからないくらいに昭和が陽炎のように見える。