演奏会のプログラミングを考える

例えば、ホルストとリードとパーシケッティを
いつまでありがたがっているのであろうね。っていう話、ないですか?

もちろん、吹奏楽界の古典、ですから、何もないがしろにしろ、とは全く思っていないのだけど。演奏会のプログラムは、いつまで、王道古典ばっかりやるんでしょうか?
若い吹奏楽編成のバンドですら、割とわかりやすい王道曲ばっかりやっている印象ありますけどね。あとマードック

いや確かにね、オーケストラの曲目もマンネリですよ。
これは、オケを聞きたいお客さんが育ってきた日本の音楽教育や、芸事とのしてのピアノ・ヴァイオリン文化の賜物でしょう。
ただ、指揮者によっては「これはお客様に聞いてみてほしい」というサービス回?を作る人もいるわけですよね。これはオーケストラのマネージメント側のナイスキュレーションだと思うわけです。やっぱり彼らの使命には「自分たちができるあらゆる時代の音楽を伝えたい」みたいなこともあるのかもしれない。
あるいは「自分たちがやりたいコンセプトをちゃんと世に問うて、いきたい」というオケもあるのかも。
では、吹奏楽にとってメインになる顧客とは?

吹奏楽の顧客層からのニーズがわかりにくい問題】
高校の場合、お客さんは主に父兄、クラスの友達、(強豪校であれば吹奏楽ファン)が主なターゲットなので発表会でいいわけです。何をやっても、誹謗されにくい。父兄の年齢層にバランスがあるっていうことは、40代ー70代くらいの開きはあるので、選曲に工夫は必要かも。
1970年代生まれと、1950年代生まれですからね。
ビートルズチェッカーズくらいの開きがあることは事実。
ただ、2000年代に流行ったポップスをやられても、おそらく問題ないし、
クラシックの曲があったとしても、子どもたちがやるものとして真面目に聞きますよね。

一般の吹奏楽団の場合、お客さんは、自分の知人(これも多様。吹奏楽やってた人、職場の人、家族、営業先なんてことも)、近隣の高校生、近隣の吹奏楽団体さん。
と、本当は誰を楽しませればいいのか、わからないまま、「発表会」的に組んでしまう団体がめっちゃ多い気がする。
昭和世代の団員さんが「ホルストやりたい」って言い出したら一曲は入れようか、
10代の団員さんが「米津ってどうかな?」って言い出したら、一曲は入れようか。
みたいな。あとはコンクール曲やろうか、みたいな。お客さんにコンクール課題曲って関係あるの?って。
なんか、自己満を聞かせるに特化するなら、お金取らないでほしいなって思います。

演奏会をやることだけが目的化しているなら、演奏会ってなんだろう?って振り返りながら、プログラミングをもっと考えてほしいだよね。
特化していくのは勇気がいるけれど。

【こんな演奏会行きたい】
■邦人・海外の作曲家の新曲ばっかり
You Tubeにアップしてくれたら、レパートリーの選択の幅を広げたい人に向けて二次的に意味があるから。
■めちゃくちゃ現代曲ばっかり
→これは、かなりコアなやり方で「北海道教育大学スーパーウィンズ」や「PRIEM WIND ENSEMBLE」「現代奏造Tokyo」的な方向ですが、これも『作曲家とこの時代を一緒に生きていく奏者としての立場』を団体として表明するという意味で非常に貴重な機会だと思います。コンクール中毒者を引き離す芸術としての吹奏楽
■他の芸術領域とのコラボ
DJ、ジャズ、新体操、ダンス、民俗芸能、IT領域や、インタラクティブ性のあるピカピカ工作などとのコラボなど、音楽の新しい楽しみ方の提示をしてくれるような演奏会は見てみたいと思う。
■コンセプトがしっかりしている
先日のオオサカシオン127回定期の「海」しばり、のような作曲者たちの個性が1つのテーマの元でショーケース的に体感できるような演奏会。
あるいは、ミュージシャンのライブのように1時間半が1つの大きな物語になっているような筋立てのしてある演奏会。
なんか、コンサートをフレンチのフルコースに見立てるみたいな献立づくりもよく見るけれど、結局フレンチのフルコースじゃないから、手法や曲が持っている味は違うので、技術的な難易度と、時間の配分で並べているように見えてしまうとつまらない気がする。
■お客さんもなにかやる
未見なので、なんともいえないのだけれど、冨士山アネットの「DANCE HOLES」
「出演者0名。」 「参加者各回限定10名。」 「制限時間60分。」

で、お客さんは影アナの指示・要請に答えて動いていくと、傍から見ると振り付けされているように見える?ダンスの現場に知らずにうちにぶちこまれているというコンセプチュアルな作品。
もちろん、演劇的な手法が音楽の演奏会に必ずしも使えるかどうかはわからないが、
お客さんだって音楽を奏でたいかもしれない。強引に促される行きずりの手拍子ではなく、心から手拍子してしまうような、そういうしかけがあってもいい。お客さんの参加によって彩られる空間があってもいい。

吹奏楽は未熟なのか?】
ブラスバンドのエンターテイメントは日本には馴染みが良いのかもしれない。
大御所「東京スカパラダイスオーケストラ」、Black Bottom Brass Band、今はなきチャンチキトルネエド大友良英バンドひいてはブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのような。野外フェスでも楽しめる吹奏楽団ってないのだろうかね…。
私の中では、近大附属高校が、本当に格好いい。
結局あれか、うまくないとつまらないってやつか…。
根本的に、楽器が吹ける喜びや、音楽をする喜びを共有することを個人個人がもっと発していけば、少なくとも楽しそうには見えるのになって思うんだけどね。


演奏会然り、吹奏楽団が、まちの文化の起爆剤になるようなそういう文化団体の育成が合ってもいいと思っている。きっと少子化で学生たちが楽器を吹く環境づくりが難しくなる時代が来るから。じゃあ、文化的であり、起爆剤になるような団体ってなんだろうか?ということも、団体が持っているべき組織としての「考え方の背骨」と、これからの吹奏楽団と社会との接点を考える上で運営側にとって大事なポイントになってくると思う。それにあたってホルストだってリードだってキラキラしてくるとも思ってはいるんだよ。
過去の名演や自分の熱狂にこだわって、作曲家をありがたがるだけでは、思い出消費の自己満型集団の域をまったく出ず。いつまで思い出で音楽やってんだよと、おっさんを蹴り飛ばしたくもなる(しない)
運営する側、選曲する側の感性のアップデートも必要ではないか?
古典をどういう演奏として磨くのか、天理や野庭を超える新しい磨き方をした演奏をどうせなら聞きたい。冒頭の言葉はそういう意味である。

吹奏楽の演奏会が、誰かにとって、なくてはならないエンターテイメントである場合だってあるかもしれないし、誰かの人生にずっと残る宝物になるかもしれない。
私達アマチュアの音楽も、お客様と同じ生活の中に愛されるものであったらいいと思う。
伝統芸をやるのは、なんのためなのか、たまには自省されたし。