気配

ようやくパーツがはまり出してきていて
何だか出来上がりそうな気もしつつまだ何だか伽藍な感じもしている。
ダンスが肉を帯びるというか、振付が生々しくなるってどういうことかなって思う。
生々しさとエモーショナルさは似ているようでスゴく遠い。

自我?は少し遠くに置いておいて体育としてダンスがダンスだけにおいて何かを感じさせられる瞬間はある。

舞踏は言葉によってエモーショナルな動きや身体イメージを作り、それによってムーブメントをつくる。自己暗示みたいなものです。でも一回目のものを繰り返すとしたらそれは振付であると思う。
ま、実際は「ぽい動き」を練習するわけなんですが…

ちなみに『臨死!! 江古田ちゃん』という漫画の主人公は何故かエアロビの代わりに舞踏を習い、白塗りで怯えられたりします。

人はいつ空気読むんだろう。空気を読んで行動するときの行動の根本には空気を共有するコミュニティ内部での常識を内部化することが必要になる。
ダンサー同士が空気を読むことができれば
お客さんを含めたコミュニティが空気を読めれば
新しい共感ができるのかもとかは思います。じゃあ空気に必要なものはなんだろう。

作ってしまうのは簡単で、同じルールを課し、別々の動機で動けば、ルール適応がされている範囲は空気を共有しある種のシンクロニシティを演出できる?これは実験しないとわかんないけど。

リアルであるとは、どこまでを言うのか?
ドキュメンタリー映画の照明やアングルやズームはリアルを演出する。
「リアル よりリアリティ」十四歳 ハイロウズ

どうでもいい、どうなってもいいと思う瞬間の静止は異常に早いと思う。

リアルは演出のない
生々しさの中にあるとして
例えば
安藤裕子の「パラレル」のPVは生々しさがある。「キミガスキ」という思いに身体が持っていかれている。
他者がうわっ〜っとどんどん遠くに舞い上がってめっきり遠くに行ってしまう。グググっと近くへ近くへと思うとき、同じく遠くへ行くよ〜。のとき、一瞬すっごく人は阿呆だとおもう。阿呆のときがすごく生々しくなる。
阿呆見たいなぁ。阿呆かっこいいな〜。

振付以外が
何かを強く訴える瞬間が肉なのかもしれない。
まず阿呆な振付で近づかないとね。阿呆、速さ。唐突感。

あ〜
男性ホルモン打ちたい!バランス悪いと思う!

もう少し時間をゆっくりにしようと思う。