悶々

なんで私は丸2日の間に5時間しか寝なかったのか。
冒頭から、あまりに「かまって君」な始まりである。

パクリパクリってなんでも言うやついるけど、知った口をたたくんじゃないよ。と
ふと思いました。たぶん、円の中にランダムに丸を並べてみようと試みたときに思った。ランダムっていうから、ランダムにならべるんだけど、円の中のランダムさなんて、なんていうかな。結局出来レースじゃないかって。
頭の中で、「ランダム性」みたいなものをどうしても意識していて、それにフィットするようにランダムを作り出しているに過ぎないのではないか、と。
one of them っていう言い方(親しい友人のうちの一人とかのときに使う)を、最近よく聞く。ほんとにoneかよって思うけどね。しかもthemの中の?本当か!?しかもすごく失礼ではないか?親しい友人のうちの一人って。なぜ「親しい友人」といわず、そのうちの一人といわなきゃならないのかがいまいち不明。そのthemは、お前の思い込みで成り立っている勝手な認識ではないのか?と細々いぢめたくなります。
だから、パクリとかも、そのthemの信憑性なんてすごく小さい尺度で見た一部分をそう解釈することで、なんていうか、「俺見つけてやったぜ」的なことを言いたいだけなんじゃねーの。お前。って思うわけです。パクリって言われたら「あなたにはそう見えるのですね?」とか言うのが大人か。なぜ人は「っぽさ」で話をし、「っぽさ」だけで生きていけるのか。

「○○みたいに見られてもよくって、でもそういう入り口があれば、本質的な自分(という表象)に近づいてもらえるのではないか」という期待というか、欺瞞であり、媚びだけれども、それでもすべきことがある場合。「っぽさ」は非常に有効な中間的なイメージとして役にたつし、ひょっとしたらそういう「っぽさ」の重なっていった状態の時、「本質的な自分の表象」にようやく自分が(自分だけが)近づけるのかも知れない。

「アート」を免罪符としたとき。(それはコンテンポラリーという言葉でもいいかもしれないけど)
果たして、その臨界点(許容値)はどこにあるのか。という事柄は、今後、社会的に議論されることになると思う。世の中本気でだまそうと思ったら、どこに行っても馬脚をだしちゃいけないのだ。おそらくそう思っているアーティストが、馬脚を出すことになると思うから。
アートとか言っているけど、うそジャン?それ!って誰かちゃんといってやったほうがいい。

最近、周りがじわじわと結婚、出産ブーム。
いいなあー。

今日は福島からの友人に会い、1時間ほど、いろいろ話。
アンディライリーの「自殺うさぎの本」を教えてもらった。
タイのエレクトロニカを聞きながら、ひたすら作業。
身体の調子よくなく、のどが風邪っぽくて困る。
まだ、もう少しこのひたすらな感じは続くだろう。
ファイト!