闘争

コンビニの前でヘッドフォンをつけて
フランクフルトを啄むひげの男子が鼻唄を歌っている。
残飯をあさる鳩に似ている。

午前4時台から8時まで同じチャンネルのニュースを見続けた。きっと他に伝えなきゃならないことは数えきれないほどあるし、占いも何だかまったく意味がわからない占いだった。同じニュースの繰り返しである。
mixiのニュースも何故そのピックアップをしたのだろうという記事だらけだ。誰かとそのニュースが話題になり、しかし大した膨らみもせずに、ちょっとだけ引っかかったりするのだろうか?

ニュースにならなかった暴動や事件は意外と身近にある。
今日ある人と話をした。ある大学生の不当逮捕について。敵は文科省か、はたまた大学当局か?教授達か?

教授達による保身いう言葉、それに伴う無関心という振る舞いは本人によって決められたことだろうか?決めるということはどういうことなんだろう。
年収数千万の彼らの責任の所在は無関心という身振りに示されているのではないのか?
一方で、誰に対して責任を果たすのか?国か?

告発するということは、うっかりという重箱にお箸をさしいれる行為に似て、重箱の大きさが不明であると告発する人が思うぶん、かえって矮小化した焦点しか結ばない。
へなへなのナイフみたいなものだ。
砦が、意識とか、認識とか、不甲斐ない地盤にあるからだ。

68年という年から40年目である。
端的にいうと、当時の彼らは解放を求めていた。解放って何だよ。小室哲哉は留置場にいながらも解放されていやしまいか?

批評というスタンスは狼少年と似ている。
その言葉によって、現実は露になったりしないじゃないか。
玉葱のハッピーソングみたいなもんだ。
批評が磁場を持っていた時代は終わり、宣伝記事と宣伝広告のザッピングされたテレビが残る。

なぜ我々は無関心を選びとり、それを正義のように見せているのか?
何かでかいもののせいにするのは辞めたい。
僕が僕のためだけに、五感がいうことを切りとることすら
自分を主張することすら淡い幕に覆われてよく見えない。

流行語大賞を受賞した芸人は一年後消えているというジンクスがあるらしいが
ジンクスではなく事実だ。みんな集中的に照射されることに飽きている。

めんどくさいを口癖にするの、めんどくさい。